イラク人質事件日本人3人のその後は?3バカは今現在何してるの?

2004年4月に起きたイラク日本人人質事件を覚えていますか?もう15年近く前になるんですね。

被害にあったのは次の3人。

・高遠菜穂子さん

・郡山総一郎さん

・今井紀明さん

イラク武装勢力が、イラクに入国した3人の日本人を誘拐し、自衛隊の撤退などを求めました。

日本の自衛隊が撤退しなければ「人質を生きたまま焼き殺す」とまで言いました。

結局自衛隊は撤退せず、9日後に人質は解放されたのですが、退避勧告にも関わらず危険な国に行き、3人の軽率な行為が国に迷惑をかけたとして、日本中で「自己責任」バッシングにおそわれました。

平成の終わりになっても相変わらず安田純平さんが誘拐された中東情勢ですが、あの時拘束された日本人3人は、いまどうしているのでしょう?

調べてみました。

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高遠菜穂子:イラクでボランティア中

生年月日 1970年1月14日(2018年で48歳)
北海道千歳市出身
大  学 麗澤大学外国語学部英語学科

高遠さんの実家は千歳市内の資産家で、数年前までは大手電機メーカーの下請け工場を経営していました。

大学卒業後、会社員を経て地元で実家が経営するカラオケボックスの経営に携わっていましたが、30歳になったのを機に仕事を辞め、ボランティア生活に入ります。

2000年インドの「マザーテレサの家」、2001年からタイ、カンボジアのエイズホスピスでボランティア活動に専念。イラクでの活動は2003年5月からでした。

イラクで拘束された日本人の中でもただひとりの女性で、事件当時は34歳。

高遠さんは事件後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を乗り越え、再びイラク支援を続けています。

現在はイラク北部のアルビールという町で、外科ミッション、教育プロジェクトなどを実施、エイドワーカー(人道支援者)として活動中。

↓↓↓現在の高橋菜穂子さん(twitterプロフィールより)

現在は、イラク支援ボランティアとして活動中……というか、事件発生から4か月後に再びイラクに向かっています。

高遠さんへのバッシングは家族にまで及んだといい、「自分が生きて帰ってきたから、ここまで家族が責められるんだ」とまで言う娘に対して、母親は頬を平手打ちしたそう。

「二度とそういうこと言うんじゃないよ!早くイラク人に会ってこい!イラク支援をやめたらわたしが許さないよ!」との叱咤激励に背中を押された形とのことです。

お母さんの気持ちはわからないでもないですが、せめてイラクの情勢が落ち着くまで待たせないものなのですかね……。

人質となった2人のその後を追ったドキュメンタリー映画『ファルージャ イラク戦争 日本人人質事件…そして』にも出演しています。

今回、安田純平さんが解放されたにあたり、当時のことを以下のように思い出しています。

私個人の経験ですが、9日間の拘束のあと、そのまま日本でのバッシングにあってしまい、それが数年間続いたので、イラクでの事件と日本でのバッシングはセットになってしまい、やはり思い出すと苦しいです。
14年が経ちますが、いまだに悪夢にうなされることもあります。

すでに海外ボランティアを始めて18年、そのうち15年をイラクでやっていることになります。

現在も時々日本に帰国し、イラク情勢やまた、ISのような国際テロ組織がなぜ生まれるに至ったのかなどについて、自らの経験に基づく講演を行っています。

確かに志は立派なのですが、この方、別に専門知識や技術があるわけでもなく、活動資金はほぼ寄付に頼っているようです。

他人の善意やカンパ、DVDの売上で集めたお金で、個人でその代行をしているようで、NPOすら設立しておらず、収支どうなってるの?という疑問が残ります。

郡山総一郎:孤独死カメラマン

生年月日 1971年11月16日(2018年で47歳)
宮崎県宮崎市
学  歴 日章学園高等学校自動車科
職  業 フリーランスのドキュメンタリーフォトグラファー

陸上自衛隊勤務の後、大型トラック運転手として就職し、地元の宮崎県で雪印の牛乳を運んでいました。

雪印集団食中毒事件をきっかけに29歳からカメラを始め、パレスチナ、イラク、アフガニスタン、タイ深南部など、世界の紛争地を駆け巡ること11年。

「写真と生活、どっちが大切なの?」と問う妻に「写真」と即答して離婚されています^^;。

人質となった今井紀明さんの名前で、高遠菜穂子さんのサイトの掲示板に、『朝日の記者の郡山さんと知り合った!とんでもない大計画!』と書き込みがあったようです。

これは自作自演の誘拐計画を暗示するものでは?とも一部で言われていましたが、この場合、提案者は郡山さんだったということでしょうか。

事件当時、郡山さんは左派的な週刊朝日の記者でした。

今井さんは高遠さんと同じくPTSDに5年間も悩まされ、対人恐怖症に苦しみましたが、写真の楽しさが忘れられず、その後も海外を精力的に回っています。

2007年、『ナショナル・ジオグラフィック』日本版の年間優秀賞を受賞。

3.11の東日本大地震が転換期となり、それまで日本など見向きもしなかった郡山さんは、人が変わったように日本を撮り始めます。

被災地となった東北地方はもちろん、いま郡山さんが夢中で追っているのは「孤独死」で、孤独死の現場や孤独死された方の自宅を撮影した写真集も出版しています。

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今井紀明:NPO法人理事長

生年月日 1985年(2018年で33歳)
北海道札幌市
学  歴 立命館アジア太平洋大学
職  業 NPO法人「D×P」理事長

立命館アジア太平洋大学を卒業後、大阪の専門商社に勤務。

2010年3月に任意団体「Dream×Possibility」を設立して12年春に退社、「D×P」のNPO法人格を取得しています。

誘拐時は18歳でした。

高校生の時に、劣化ウラン弾による被害状況の写真を展示した写真展を見て衝撃を受けたのがきっかけで、様々な年代のの有志を集めて市民団体を作り、劣化ウラン弾の危険性を訴える活動を始めました。

授業を放り出して国会議員や市議会議員を訪ねて回り、NPOや企業のインターンなどに精を出すなど、非常に意識の高い若者であったことが話題になっていました。

イラク人質事件後に多くの人にバッシングされたことで、4~5年ほど、対人的に不安を抱えるようになりました。

この事件がきっかけで、今井さんのお兄さんは職を失っています。

高校生が一夜にして、日本中で顔と名前を知られた存在になったのです。

外に出ればいきなり怒鳴られ、後ろから殴られさえしたそうです。

一時期引きこもりになりますが、「誰も知らない所へ行こう」とイギリスに1年ほど滞在するものの、そこでも日本人には顔と名前は知られています。

人目を避けるためか、あまり知名度の低い大学に進学しています。

大学2年生の終わりに、バックパックを背負って東南アジアに1ヶ月旅行をしたことで、自信を取り戻し、人質だった経験から若者支援の起業を考えます。

大学卒業後は専門商社に就職(2012年退社)。

現在は、大阪府や京都府など関西の通信制高校で、単位として認定されるキャリア教育プログラム「クレッシェンド」を手がける「認定NPO法人D×P(ディーピー)」の理事長をつとめています。

かつて「働きながら学ぶ」生徒の受け皿だった定時制・通信制の高校は、引きこもりや経済的困窮、いじめ、親や先生との葛藤、家庭の貧困など、様々な事情を抱えた生徒が進学してくるようになり、10代で挫折する原因は様々。

そんな状況に置かれた若者たちを、今井さんは、かつての自分が置かれた境遇に重ね合わせ、高校生を親や教師以外の大人と関わらせることで、「社会とのつながり」や「自分を肯定する気持ち」を与えることを目的として活動しています。

現在は、NPOの共同代表を務めながら、講演で全国を飛び回る毎日。

2018年はアタカマ砂漠マラソンにチャレンジしています。

中東の日本人人質事件

イラクとシリアを合わせると、日本人が関係した事件は、これだけの件数にのぼります。

2003年11月、2名射殺 奥克彦参事官、井ノ上正盛書記官

2004年 4月、3名解放 高遠菜穂子、郡山総一郎、今井紀明

2004年 4月、2名解放 渡辺修孝、安田純平

2004年10月、1名殺害 香田証生

2005年 5月、1名殺害 

2015年 1月、2名殺害 湯川春菜、後藤健二(シリア)

2018年10月、1名解放 安田純平(シリア)

2004年のこの3人は、当時とても物価の高かったバグダッドで、たまたま移動の車をシェアしていて、その移動の途中で拉致されました。

彼らにとって幸いだったのは、誘拐犯が学校の先生や建設会社で働いている人など、普通のイラク人たちの寄せ集めだったこと。

どうも、彼らのメンバーうち誰かがはやまって捕まえてしまったらしく、どう扱うかで困ってしまい、扱いはすごく良かったそうです。

要は家族が殺されていて、米軍は憎いけれども日本人に恨みはない、ということで戦闘に巻き込まれないよう、かえって気を遣ってくれさえしました。

解放される前日は、3人で寝っ転がってジャッキー・チェンの映画を観ていたとか^^;。

まとめ:昭和は終わったし平成ももう終わりますよー

当時はアメリカが圧倒的物量作戦で、イラク全土を木っ端微塵に踏み潰した直後という情勢でした。

高部正樹さんでさえ、この時のイラク軍からのオファーを蹴っているくらい、誰の目から見てもイラクに勝ち目はない戦争でした。

3人それぞれの動機は立派ですし、当時のバッシングは過剰すぎたと私も思います。

家族も心配のあまりか、救い出してほしいとテレビその他を通じて国民に訴え、高圧的な態度で政府にプレッシャーをかけたことも、国民の神経を逆なでしてしまいましたね。

そしてこの事件、「狂言誘拐では?」という説も根強いです。

よど号ハイジャック事件、ダッカ日航機ハイジャック事件のように、人命を高く掲げて政府に詰め寄れば、政府はいうことを聞くというという左巻きな昭和思考はすでに終了していたことが如実に顕れた事件でした。

……やっぱりみんな心配していたのですよ、それなのに「自分たちはいいことをしにイラクに行ったし、誘拐犯たちは親切だった。何が悪いの?」というあの姿勢は、いくらなんでも火に油でした。

日本政府が「退避勧告」を出している時に、何の訓練も受けず、自分を守ってくれるどの組織にも属していない身分で戦争直後の地域に出向いたのです。

言いたいことがあるのなら「確かに軽率な行動だった。けれども……」と、枕詞をひとつつけるだけでだいぶ周囲の印象は違います。それくらいは計算して欲しかった。

3人の現在のブログなどを見ても、

・当時のバッシングがひどすぎてPTSDになった

・当時の誹謗中傷の経験を踏まえて、今……

というコメントが目立ちます。

いや、「経験を踏まえる」はいいけれど、ポイントそこなの?と思いました。

21世紀の平成の価値観と、3人の先カンブリア時代の認識の、あまりに埋めがたいズレの隙間を、巨大ハリケーンの暴風が吹き荒れた事件でした。

そもそも論に戻りますが、どんなトラブルに遭遇しても、誰に何を言われても仕方ないというくらいの覚悟は、やはりなかったということなのでしょうね。

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コメント

  1. 土木や より:

    正直、高橋菜穂子さん以外は「自業自得」だと当時から思っていました、高橋さんの親族にバッシングが及んだのではなく、親族の行動に皆怒っていたんです、自分達は娘を止めもしなかったくせに、いざ事が起こると国や外務省に責任転嫁して、省庁前に立って何日も罵ったから。
    その後のバッシングにしても、この家族の行動が無ければ多分そこまで酷くはならなかったと思います。

  2. 通りすがり より:

    当時(今も)TVがない生活なので、映像で被害者やその家族・親族の様子は見てないです
    バッシングが過剰だった、叩く側が集団ヒステリーの様相を示していたのではないかと思いますが、本人とその周辺が火に油を注いだというのも事実なんでしょうね
    ジャーナリストが戦地に赴くのはおかしくないですが、不肖宮嶋氏の著作や高野秀行氏のソマリアの話を読むと「危険な仕事と最大限の安全を確保できるかのバランス」「戦場カメラマンは生きて成果を持ち帰らなければならない」にかなり力を注いでいるのが解ります
    それでも宮嶋氏の師匠のように襲撃を受けてなくなる事もあるのに、この三人は呑気すぎる