立川志らくの弟子7人は?今時の若者感覚で全員前座に降格処分

辛口コメンテーターとして大人気の落語家・立川志らくさん。

私はこの人がかなり好きで、応援しています。

しかし今月下旬、志らくさんが主催する劇団「下町ダニーローズ」の稽古の手伝いに、二つ目の弟子達がまったく来ないことに腹を立て、全員を前座に降格処分しました。

志らくさんは一連の怒りをツイッターでつぶやいていましたが、お弟子さんは全員ツイッターやメールであわてて謝罪。

弟子の出来の悪さを指摘する師匠にラインで詫びる弟子というのも、まあ師匠は弟子に似るというか……ここらへんはどっちもどっちな気も^^;。

志らくさんの弟子とは、どのような人たちなのでしょう?

【参考】

立川志らくの嫁はタトゥー入り!意味や場所、離婚歴や子供たちは?




立川志らくが弟子全員を降格させた理由

2019年5月、自分が主宰する劇団の稽古に一門の弟子たちが1度も見学に来なかったことを嘆くツイートを投稿。

昔、同様のことがあったようです。

そして今回、ふたたび同じことが起きたと、志らくさんは嘆いています。

「全員、破門にするか前座に降格するか、である。どうせ師匠は優しいから謝れば許してくれると連中はなめている。数年前、同じ騒動が持ち上がった時、破門通達したが皆泣いて詫びたから許してしまった。あの時、破門にしとけばよかった」

と、二つ目の弟子全員を降格もしくは破門にする考えを明らかにし、翌日のツイートで二つ目全員を前座に降格させたことを投稿。

自分の芸に興味がないなんて、そりゃあ悲しいですよね。

こういう芸の世界は、このくらい厳しいもので、そうでなければ食べていけるだけの芸が育ちません。

ようは弟子に舐められてるということで、師匠として軽く扱われ過ぎたことに、危機感や不快感が出てきたのでしょう。

ここでしっかり軌道修正するしかありません。

師匠の振る舞い方で、弟子の態度は決まります。

見習いと二つ目の違いは?

師匠が入門を許可すると、まず「前座見習い」となります。

前座見習いの仕事は、師匠(あるいは兄弟子)に付いて仕事先へのかばん持ち、師匠の家の雑用、そして前座(楽屋入り)になるための修業(落語の稽古、着物の着方やたたみ方、鳴り物の稽古など)です。

次の段階が「二ツ目」で、寄席の番組(プログラム)で二番目に高座へ上がるので、「二ツ目」と呼ばれることが由来。

二ツ目になると見習いと時の雑用がなくなり、着物も今までは着流しだったのが紋付を着て、羽織も着られて、袴を着けることもできるようになります。

毎日楽屋へ来なくてもいいようになり、高座の数も減り、そこで自分の責任で高座(仕事)を探さなくてはなりません。

二ツ目を約10年勤めると、いよいよ「真打ち」になります。一人前です。

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立川志奄

名  前・・立川 志奄(たてかわ・しえん)

本  名・・ 後藤貴雄

生年月日・・ 1974年6月24日(2019年で45歳)

活動期間 ・・1999年 –

1999年4月、立川志らくに入門。

前座名は、志らくの8番目の弟子で、らく八(らくはち)。

2012年4月、二つ目に昇進し、志奄に改名しました。

落語家になったのは、立川談志が好きだったため。

立川談志に弟子入りしたかったが、すでに当時、弟子を取っていなかったことから、彼の選択肢は、志らくしかありませんでした(…)。消去法らしいです。

これまでの落語家人生で、あまり運は味方してはくれなかったとコメントしていました。

大師匠の立川談志の前で弟子が集まっての二ツ目昇進試験があったときには、インフルエンザで噺をすることができませんでした。

落語については「奥が深い。難しいし、それが面白い」と、話しています。

立川志獅丸

名  前・・立川 志獅丸(たてかわ ししまる)

本  名・・ 吉盛 正之(よしもり まさゆき)

生年月日 ・・1976年4月19日(2019年で43歳)

活動期間・・ 2002年 –

明治大学付属明治高等学校、明治大学農学部農業経済学科卒業後、株式会社きもののやまとに入社。

2年勤続してから、立川志らくに弟子入りしました。

2002年から2012年までは立川らく太、その後立川志獅丸に改名。

2014年3月には「第13回さがみはら若手落語家選手権」初出場して初優勝しています。

当時、まだ二ツ目になって半年がたったばかりでしたが、そこは前座歴9年という経験が存分に生かされた形です。

居酒屋やカレー店、レストラン、鉄板店などでの落語会が多く、同世代の落語家も気になるためか「刺激になる」と、高座の袖で必ず聴いている。

らく兵

名  前・・らく兵(らくへい)

本  名・・ 中間 剛

生年月日・・ 1977年5月8日(2019年で42歳)

名  跡・・立川らく兵(2006年 – 2014年)らく兵(2015年 – )

活動期間 ・・2006年 –

2006年8月、立川志らくに入門。

容姿が戦争中の旧日本兵に似ているという理由で、志らくより「らく兵」と名付けられた(何か納得)。

2012年4月にめでたく二つ目に昇進するも、2014年1月に飲酒を原因としたしくじりで、志らくに破門。

2015年2月、「立川という亭号を名乗らない」という条件付で復帰を許され以後、ただの「らく兵」として活動中です。

らく兵の落語の魅力は、その真面目さと、その表情と同じで、とぼけた笑いにあります。

「お客さんに興味を持ってもらって、自分にしかできないものを開拓しないといけない」と話していたこともあり、まじめさが彼の良さだと思います。

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立川らく人

名  前・・立川らく人(たてかわ らくと)

本  名・・土井真也

生年月日・・ 1985年4月16日(2019年で34歳)

出 身 地 ・・鳥取県米子市

名  跡・・1. 立川らく人(2011年 – )

活動期間 ・・2011年 –

イケメンです。

かつ、横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程卒業という、たいへん頭のいい人です。

2011年4月、立川志らくに入門、2015年2月、二ツ目に昇進。

落語界の厳しい修業をしながら、踊りの稽古に通っている一面も。

落語をやるうえでは、「落語をはじめて見るお客さんでもわかるように」ということを心がけています。

どの噺でも、資料にあたったりして、できるだけ内容を掘りさげることに専念しているそう。

落語についても「そもそも無謀なんです。けどその無謀をやりとげたとき、自分がどんな落語家になっているのか、次になにに挑むのか、自分でも楽しみですね。」と語っていました。

立川がじら

名  前・・立川 がじら(たてかわ がじら)

本  名・・小田中裕士

生年月日・・ 1986年5月21日(2019年で33歳)

名  跡・・立川がじら(2011年 – )

活動期間・・2011年

群馬県前橋市出身。

前橋育英高校を経て、明治大学文学部ドイツ文学専攻を卒業という超インテリ。

学生時代には、明治大学落語研究会に所属しています。

2011年2月、立川志らくに入門し、2016年12月に二つ目に昇進。

第9回前橋若手落語家選手権準優勝するなど、なかなか優秀。

役者として小演劇への参加(劇団「地蔵中毒」)など、落語の枠外から落語へのフィードバックを狙う活動を展開中。

古典落語のほか、詐欺や悪質商法の啓発落語をこなすかたわら新作落語まで、多種多様の器用さを持ちます。

立川志ら門

名  前・・立川志ら門(たてかわ しらもん)

本  名・・橋本堅

生年月日・・1984年7月24日(2019年で35歳)

2014年6月 入門

愛媛・大洲市生まれ。

大学1年時に右肘を故障し、右肘靭帯(じんたい)の再建手術、通称『トミー・ジョン手術』に踏み切った驚異の経験を持つ人。

東日本大震災で「いつ何が起こるか、わからない」と人生を再考し、子供のころ心を奪われたという落語の世界に飛び込む決断をした。

2013年1月、桂文治師匠に弟子入りし、『桂しゃも治』として前座修行を開始。

ところが、師匠に黙って出場した草野球大会で右ひざを骨折。

さらに自宅謹慎中にパチンコ店で文治師匠と鉢合わせし、破門されています。

それでもあきらめきれず、2014年6月、縁あって立川志らく師匠に弟子入り。

志ら門の名は「破門の門」に由来しているそうです。

志らく師匠、なかなかいいセンスしてますね(笑)。

立川志ら鈴

名  前・・立川志ら鈴(たてかわ しらりん)

出  身・・北海道札幌市

生年月日・・1975年8月生まれ(2019年で44歳)

2013年4月入門、2019年4月二つ目

珍しい、女性落語家です。

地元札幌で保育士として働いた後に上京し、声優、漫才師を経ての入門。

志らく一門の14番弟子。

まとめ:師弟制度がある世界に飛び込んだのなら、弟子はやっぱ弟子らしく振舞うべきでは


師弟関係がどーこー言う以前に、人として悲しいですよね。

怒る気持ちよく分かりますよ。

前にも同じことがあったのにまたやらかすなど、同情の余地なしです。

弟子なら師匠のスケジュールはある程度把握しておくものですし、興味がないならどうして弟子をやっているのか、という話になります。

今どき、落語の弟子も、残業・休日出勤したくない若者と同じなのですね。

たいへん残念です。

【参考】

立川志らくの嫁はタトゥー入り!意味や場所、離婚歴や子供たちは?

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コメント

  1. 岸波 徹 より:

    子供の頃、多少、苛めにあったりしましたけど、家に帰ってきて母親の淑子さんに甘えれば「どってことない、明日は明日の風が吹く」と思ってめげずにやってきました。
    父親の伝さんは、岩城皇がルーツだと言われている福島の田舎から出てきた土木王で
    妹は、いつも僕の友達に詰られて泣いていました。そんな、僕も、加藤茶さんといかりや長介さんと中本こうじさんと北野武さん、そして、明石家さんまさんのコントは、大好きでした。つまり、ぼくの幼少期に彼等コメディアンがいたからこそ、ぼくは、生きてこれたのです。落語もいいですが、漫才はさらに良いです。これからも、庶民を元気にさせる落語家を続けてください。師匠、因縁だけは、どうにもなりません。岸波家は、高知井上家と親戚です。一度、師匠の上座を聞きに行きたいと思います。その時は、宜しくお願い致します。