10月29日に放送される「激レアさんを連れてきた」で、益田祐美子さんが紹介されます。
自分の娘が主演する映画を作ろうと思って大奮闘した結果、イランの映画賞を総なめにした上に、そのまま映画プロデューサーになっちゃったというすごい人。
娘のわがままを叶えるために映画作りに着手した普通の主婦さんでしたが、現在は「平成プロジェクト」という映画配給会社の代表取締役になってます。
この人すごいです、調べれば調べるほど引き込まれます!!
まずは基本プロフィールからさっそく見ていきましょう。
名 前:益田裕美子(ますだゆみこ)
生年月日:1961年(2018年で57歳)
出 身 地 :岐阜県高山市
出 身 校 :金城学園大学(偏差値45~50)
結 婚:既婚
肩 書 き :
映画プロデューサー・平成プロジェクト代表取締役社長
内閣府「生活者の観点からの地域活性化調査」委員
第2・3・4回経済産業省ものづくり大賞審査員
瀬戸内国際こども映画2011 総合プロデューサー
防衛省航空幕僚幹部援護推進委員と「ヒロシマ平和賞」選定委員
代 表 作 :風の絨毯(2003)
その他、平成職人の挑戦(2007)、蘇る玉虫厨子(2009)、築城せよ!(2011)、海峡をつなぐ光(2013)、李藝(2014)、瀬戸内海賊物語(2015)、シネマの天使(2016)
受賞歴:「高齢者用商品開発への提言と実際」商品研究大賞受賞。
益田裕美子さんは40歳の時に自ら映画を作りたいという夢を抱きました。
彼女は未知の世界に果敢に挑戦し、映画作りの輪を日本国内のみならず、イラン、韓国、カタールにも広げ、数々の映画製作を実現しています。
スポンサーリンク
普通の主婦が映画を作ろうと思い立ったきっかけは?
夢を現実に変える。
小さな夢ならか叶えられることもありますが、個人が映画製作に乗り出すとなるとそうもいきません。
増田さんは大学卒業後、普通に結婚し、一人娘に恵まれました。
益田さんが映画に係わるきっかけは、娘さんでした。
2000年にある映画のオーディションに合格して青森ロケがありましたが、かなり過酷スケジュールだったようで、娘さんはストレスが溜まって嫌気がさしていました。
益田さんもステージママとしてロケ地の青森まで付き添って行ったのですが、初めのうちこそわくわくしていましたが、撮影現場は寒いし、とにかく待たされる。
しかも親が不倫して子供が耐えるという内容だったのでで、「こんな映画はいやだ、私降りる」と、とうとう娘さんが言い出したんです。
ここで降りては映画関係者に迷惑をかけると考えた益田さんは、娘さんにこう言います。
「ママには貯金があるから、それであなたが主役の映画を作ってあげる。だからこの現場はやり通しなさい」
撮影を何とか終えて映画が完成したところで、娘さんが「ママ、私との約束どうなった?」とたずねました。
それが映画の世界へ入るきっかけです。
益田さんも、映画の現場を見学する過程で「日本とイランの子供が心を通いあわせる映画を作ろう」とぼんやりと考え始めていました。
益田裕美子の映画製作資金3000万円はどうしたの?
益田さんは、一人娘のために映画をつくることを決意します。
しかし、映画というのはとかく膨大な資金が必要です。
いったいどうやって資金を調達したのでしょうか。
益田さんは岐阜で結婚して間もなく、旦那さんが東京に転勤になりました。
空いている時間に何をやろうか考えていた時に、ある雑誌から、新商品の開発と消費者の立場に立った生活情報を紹介する記者のオファーをもらったとのこと。
その出版会社が倒産の危機に陥ったこともありましたが、益田さんは旦那さんのお給料で生活はできるため、「給料は要らないから自分に書かせてほしい」と頼みこみ、新商品と企業の取材をそのまま続けました。
内容は「○○化粧品のアレルギーテスト済みというのは嘘だ」とか「××社の電子体温計が信じられない消費者」といった、いわゆる内部告発のようなことも含め、是は是、非は非という記事を書ききったのです。
そのうちに、医療用具メーカーや化粧品メーカーがスポンサーにつくようになり、赤字だった出版社が、2年間で3000万くらいの黒字に。
そこで会社組織にすることになり、増田さんはその会社の株を半分もらえたのです。
それが3000万の貯金で、『風の絨毯』の原資となりました。
きっとすごくいい記事を書いたのでしょうね。
※もっとも、機材やキャストにこだわっているうちに、予算は1億5000万に膨れ上がってしまいましたが・・・・・・。
なぜイランだったのか??
理由は、益田さんの家の近くに、イラン人が経営するペルシャ絨毯店があったこと。
たまたま店内でペルシャ絨毯を見ていたところ、店とお客さんとの間に入って交渉する機会があり、100万円もする絨毯が売れたのです。
すると、そのお店のイラン人のご主人が気をよくして、お客さんがくると益田さんを呼び出すようになりました。
実は益田さんの実家は飛騨高山の和風旅館。初対面の人と気軽にふれあうことができる素地があった様子。
益田さんも面白がって協力するうち、いっそ会社を作ろうという話になって、ご主人が社長、が店員になっていたんです。
同時に、イラン映画を観る機会も増えていきました。
スポンサーリンク
いったいどうやって普通の主婦が映画を作ったの??
益田さんはとにかく行動力が凄いのです。
最初は東宝や松竹など日本の大手映画会社に企画を持ち込みますが、もちろんすべてお断り。
日本では無理だなと思っていた時、子供を主役にしたイランの映画『運動靴と赤い金魚』がアカデミー賞外国映画賞をとったことを思い出しました。
それですぐにイランに行き、監督のマジッド・マジディ氏に会い、「自分は映画が作りたい」と訴えたというのですからすごすぎです。
ペルシャ絨毯店の主人からアドバイスもあったのかもしれませんね。
芸能事務所があーだこーだ言う日本の会社とは違い、イランのマジッド・マジディ監督とはスムーズに話がとおって「じゃあ作りましょう」となり、益田さんはここで契約金を渡し、もう映画製作の契約を交わしてしまいました。
もちろん家族は大反対。
それもなんとか説得し、製作資金集めから脚本家、監督、出演者の選定など、一から学びながらのスタートを切りました。
異なる文化圏の人たちとの共同作業なので契約ひとつをとっても日本とは勝手が違い、行き違いや失敗の連続。
クランクインを前にして9・11の同時多発テロが発生したときは目の前が真っ暗になったとか。
しかし最後は益田さんの情熱に勝利の女神が微笑み、映画「風の絨毯」が完成しました。
映画製作を通して、実にさまざまな人と出会え、スポンサーも広がり、それが今も貴重な財産になっているのだと、益田さんはどこまでも前向きです。
益田裕美子は1億円もの映画製作資金をどうやって調達したの?旦那や娘は?
益田さんの旦那さんは、一貫して映画製作には反対していました。
しかし最終的には映画資金調達の為、車を売って家まで担保にして、1億円を借り入れ、益田さんの映画製作を応援しました。
そのきっかけは、娘さんの一言。
「風の絨毯」のオーディションの最終審査を控えたある日、娘さんは、ご両親にこう話しました。
「この映画はママがプロデューサーだから、私はオーディションは棄権する。もし私が主役に選ばれたら、贔屓だって思われるし、私が落ちたら、ママも私もいやな思いをする。だからママは公平に審査して、いい子を選んでほしい。私は裏方で手伝うから、いい映画にして絶対ヒットさせて」と。
それを聞いて夫は涙を流し、それまで反対していたのがサポーターに回ったとのことです。
益田さんは、『風の絨毯』に出演した三國連太郎さんからこう言われたそうです。
「益田さんはすごい。何がすごいって、旦那がすごい。感謝しなさい」
スポンサーリンク
株式会社「平成プロジェクト」設立へ
「風の絨毯」は、多少の利益が出たらしく、三國連太郎さんから
「君は娘との約束で映画をつくったのかもしれないけど、せっかくできた人脈を大きく広げて深くしていくためには、もう少し映画をつくってみたらどうか」
と提案されました。
それを受けて、益田さんはドキュメンタリー『平成職人の挑戦』、『蘇る玉虫厨子』を作成。
今では証券会社がファンドをつくっていて、最低限の資金だけ集めれば良くなり、すべて回収ラインに乗っているとのことです。
益田さんは2008年に「株式会社平成プロジェクト」を設立、事務所は東京都千代田区と岐阜高山市の両方にあります。
この会社は、劇映画・ドキュメンタリー映画の、企画から配給・宣伝・セールスまでの一貫した製作業務を、主に製作委員会方式の幹事会社となり遂行しており、ほかにもイベントや書籍、オリジナル商品の企画販売まで手がけています。
以降、1年に2~4本の映画制作を行っています。
2018年の公開予定作品は次のとおり。
・映画「一陽来復 Life Goes On」(2018年劇場公開)
・映画「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。」(2018年劇場公開)出資
益田さんの夢は、60歳になったら故郷の飛騨高山に帰ること。
60歳までは「平成プロジェクト」で一気に仕事をし、それ以降は親の遺言を守って故郷の飛騨高山に帰り、農業などをやったりしながら、地域のために働きたいと言っています。
まとめ:生活に余裕があるなら目の前の仕事にとことん付き合うのもいいかも
益田さんが映画を作ったきっかけは、子供との約束を守るため。
「映画を作ってあげる」という母親の言葉を、10歳の子供は冗談とは思いません。
多くの大人はだいたいごまかして終わらせてしまうものですが、増田さんは自分の言葉と子供に真摯に向き合い、実際に行動を起こしました。
そして、自分の世界を本当に変えてしまったのです。
できない約束をする親は少なくないですが(笑)、益田さんが娘との途方もない約束を叶えることができたのは、最初に3000万円というお金があったから。
その3000万円は、仕事をくれた倒産寸前の会社に、見返りを求めず最後までとことん付き合ったからなのですね。神様は見ていたということでしょうか。
故郷の飛騨高山をルーツとする益田さんは、様々な国や地域の職人の技術や技能、思いや哲学を映像にして次の世代に引き渡すことが自分の仕事だと考えています。
最初は映画で儲けようという気持ちは全然なく、むしろイランと映画をつくっている間に、国も宗教も経済も対立するけれど、文化は国境のないコミュニケーションツールだということを学んだとのことです。
異文化をつなぐことに注視し、韓国との合作映画も作成しています。
次回作も楽しみですね!
スポンサーリンク