最近、話題が少なくなった宮沢りえさん。
貴乃花のごたごたで、昔のことをちょっと思い出してしまったのでネットで調べてみると、ここ2年ほど、あまり女優のお仕事はされていない様子でした。
宮沢りえさんの昔のことで思い出すのは、私の世代ではやはり貴乃花と、りえママこと宮沢光子さんです。
もう30年近くの時間を経ても、記憶に鮮やかによみがえる、当時の角界のサラブレッド・貴乃花と、売れっ子タレントの宮沢りえさんとの婚約発表。
貴乃花とは2ヶ月で破局、紆余曲折を経て再婚されていることは知っていましたが、マネージャーをしていた母親の光子さんが2014年に亡くなっています。
2016年にはV6の森田剛さんと結婚し、その後は芸能活動らしい活動はしていません。
母親のコントロールがなくなって、やっと解放されたのでしょうか。
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宮沢りえのプロフィール
何はともあれ、まずはプロフィールを。
本 名 | 森田 りえ(旧姓:宮沢) |
---|---|
生年月日 | 1973年4月6日(2019年で46歳) |
身 長 | 167 cm |
血液型 | B型 |
家 族 | 父親:オランダ人男性 母親:宮沢光子(死亡) その他:異父兄弟・異母兄弟あり |
配偶者 | 一般人男性(2009年 – 2016年) 森田剛(2018年 – ) |
事務所 | エムツー企画 |
宮沢りえさんは、外国人とのハーフですが、日本人ぽい整った顔立ちで、「外国人」より「美人」という印象を受けます。
11歳でモデルデビュー、程なくして雑誌 『週刊セブンティーン』(当時)の表紙モデルとなりました。
それ以降、数々のドラマや映画に出演し、いまや大女優の地位を確立しています。
その影には、常にりえさんに寄り添う母親の存在があったのです。
りえママこと光子さん
一時期、りえさん本人より母親の「宮沢光子」さんの方が話題になったことがありました。
こういってはなんですが正直言うと、光子さんは、美しいりえさんとはあまり似ていません。
光子さんはもともと自分が女優になりたかったそうですが、叶えられなかった夢をりえさんにに託していました。
りえさんを徹底的に守り抜いた反面、強烈なステージママとして、彼女の美貌を元手に大女優にするべく厳しく教育し、芸能界で生き抜くためには何でもやるという手段を選ばない強硬さが、世間の反感を買っていました。
まあ、「娘を脱がせて稼げるのは今しかない!」とばかりに
・まだ10代の娘を脱がして、伝説のふんどしカレンダー
・ヌード写真集『サンタフェ』
を出版させる母親というのは、マネージャーとしての才能はありますが、あまりに商魂たくましすぎたとは思います。
この『サンタフェ』は150万部を売上げ、日本中でブームを巻き起こし、5億円が母娘に入ったと言われ、光子さんは「5億円で娘を売った母親」として批難の的になったものです。
りえさんが女優としてスターダムにのし上がるために利用できると見込んだ大物タレントやプロデューサーなどに、『○○さんには力がある。一晩共にしてきなさい』と、りえさんに枕営業を母親みずから進めていたと言われています。
また、光子さんがりえさんを「仕事を取ってきなさい」と、ビートたけしさんが宿泊していたホテルの部屋に娘を送り込んだというのは有名な話です(たけしさんはりえさんに気の毒に思い、そのまま帰したとのこと)。
時間がかなり経った後、未遂だったたけしさんが話しただけで、実際は他にそういうことをしていたのかもしれません。
光子さんはもともと六本木のクラブでホステスとして働いていて、その時にオランダ人と恋に落ちて妊娠、りえさんが生まれました。
しかし、りえさんが生まれた後、母親の光子さんはそのオランダ人男性を追って、り単身でオランダに行ってしまいました。
日本に残された赤ん坊のりえさんは、幼少期は母方の伯母の家で、祖父母やいとこたちと一緒に暮らしていました。
その後、宮沢りえさんがまだ小さい頃に両親が離婚し、光子さんは帰国。
だから宮沢りえさんは父親とは全く交流がなく、会話もしたこともありません。
それからは母1人娘1人で 「一卵性母娘」とも言われるくらい仲がよく暮らし、二人三脚で芸能活動をしてきました。
光子さんは、日本人のピアニストと再婚し、男の子を一人出産していますが、出産後間もなくりえさん一人を連れて家を出てしまいました。
光子さんは、2014年9月に、肝腫瘍で亡くなっています。
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貴乃花とは2ヶ月で破局
光子さんは、りえさんとは何をするにも一緒で、箔をつけるために事あるごとにパーティーを開き、各界の大物を招待して、娘と引き合わせていました。
男性との交際についても、光子さんのおメガネにかなう人物でなければ、叶いません。
りえママは、りえさんにに”一流の人間とだけ付き合え”と常に言っていたそうで、りえママがつてを使って、娘を貴乃花と出会わせた可能性は十分にあります。
貴乃花とのなれそめ&婚約
当時の貴乃花(20)と宮沢りえ(19)は、若いながらもそれぞれ角界と芸能界のビッグネーム。
最初の馴れ初めは雑誌の対談で、その後意気投合したふたりは「りえちゃん」「こうちゃん」と呼び合う仲に。
そして二人は1992年の11月場所の直前に婚約を発表したのです。
若貴フィーバーと、サンタフェフィーバーのど真ん中でしたから、それはもう日本中から大注目されたカップルでした。
あらゆるマスコミに囲まれ、騒動や大騒ぎどころではない、喧々囂々たる大渦の中、ますます輝く2人の幸せそうな笑顔が、本当に美しくて希望にあふれていて、なんと素敵だったことでしょうか!
「世紀のビッグカップル」と銘打たれ、1992年の年末から93年のはじめにかけて、今でも多くの人々の記憶に残るほど、この時期の2人の人生において、間違いなく最高に美しい一コマだったことでしょう。
まだ昭和の余韻が残っていた平成4年(1992)、人気絶頂だった相撲の貴花田(現貴乃花親方)と宮沢りえとの婚約会見。26年前なので知らない人もいるかもしれません。宮沢りえさんの笑顔と目が好きな人を見る時のもので、ピンクのオーラが写真からも見えますw 心から好きだったのだろうと思います。 pic.twitter.com/dODAwD6MON
— BEのぶ(米澤光司) (@yonezawakouji) 2018年9月23日
破局の原因はやはりりえママ
しかしこのわずか2か月後の1993年1月に、突然の婚約破棄を発表。
永遠の愛を誓ったはずの2人が、突然の終わりを迎えます。
貴乃花が史上最年少大関となった同じ日に、「連絡もとってないし、会ってもいない」「(彼女への)愛情がなくなりました」と語り、りえさんもその2日後、破局会見を開き「残念です」と破談を認めたのです。
正月気分がやっと抜けた雰囲気でテレビを見ていたこちら側としては、「貴乃花大関昇進おめでとう!……え、今何てった??」という感じでした本当に。
婚約会見までしたのですから、一度は光子さんのオーケーが出たのでしょうが、娘を絶対に大女優にしたかった光子さんは、ふつうの感覚を持つ母親ではありません。
やはり土壇場で、いまや日本中が注目し、才能あふれる娘を手放し、相撲界の女将に埋もれさせるのが惜しくなったのでしょう。
一度貴乃花とのイメージをりえさんにつけさせ、すぐに引き離すところまで、最初から光子さんの計画ではなかったのかな……。
私は、りえママが本当に貴乃花と結婚させようと考えていたとは思えないんです、売り出す作戦の一つとして、貴乃花を使ったのではないでしょうか。
だって芸能界のタレントじゃなくて角界のプリンス相手だったら、今後の芸能活動にはほとんど支障がないですから。
ヌード写真集で日本中の大注目を集めたりえさんに、さらに角界のプリンスとの破局という「生涯人々の記憶から消えることのないイメージ」をつけることで、りえさんの知名度を永遠に留めておくことが、光子さんの戦略であったのかとさえ思う時があります。
事実、りえさんは「ヌード」「貴乃花」「りえママ」のイメージが強く、その後も度々起こすスキャンダルをきっかけに、これら過去の記憶が呼び起こされ、その都度「女優・宮沢りえ」は何度も何度も生き返ったのです。
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りえママとタニマチとの確執
直接の原因は、りえママと花田家サイドのタニマチとの確執が原因です。
2人の婚約会見の時の記者の質問で、宮沢りえさんに『結婚したら、お仕事はどうされるんですか?』と質問され た時、『お仕事は続けます』と答えた時、貴乃花の顔が曇りました。
りえママははじめの頃、「うちの子の方が稼げる」とか言って、めちゃめちゃにしちゃったような記憶が残っています。
結婚後も芸能界での活動を重視するりえママと、引退して女将さんとして裏方に徹するべきとするタニマチ側の意見が完全に噛み合わなかったため、もちろんタニマチ重視の二子山親方(当時)である父親の命令で破談になりました。
今でもですが親方の命令は絶対で、しかもタニマチの影響力は強いので二子山親方も逆らえず、母親の紀子さんや兄の若乃花にも強く言われ、別れるしかなかったのです。
破局の原因はやはりりえママ
光子さんは、もちろん親子としての愛情はあったとは思いますが、それ以上に、りえさんを大女優にするため、何を最優先すべきかを常に考えている人でした。
貴乃花は、おそらくはりえさんサイドのこういった事情を理解した上で、全てを敵に回してでも、自分が悪者になってもりえさんを庇う覚悟だったのだと思います。
誰もが不可解な思いを抱えて約20年以上たった頃、光子さんの病死を見届けたように2014年、芸能界のご意見番・美川憲一さんが、この時の貴乃花とりえさんの破局の真相を話しました。
曰く、『りえママに頼まれて、私が二人の仲を壊した』というのです。
光子さんと親交の深かった美川憲一さんは、「りえに貴乃花を諦めるよう説得してくれ」と頼まれ、2人を破局させる役目を担ったのというのです。
それを受け、美川さんはロサンゼルスから日本のりえさんに電話をかけ、「本当にお嫁に行きたいの?」と聞くと、「行きたい」とはっきり答えました。
しかし、美川さんは
「あんたは背負ってるものが重すぎる。あんたも母一人子一人。私も2人の母(生みの母と育ての母)を背負ってきた。そういう家庭に生まれたらしょうがない、運命だから。おかみさんになったら、お母さんどうするの?ずっと面倒みていかないといけないのよ」
と語りかけたのです。
りえさんは、電話の向こうで泣いていたといいます。
今となっては、りえママは「毒親」に分類された人だったのでしょう、これは完全に「子供の罪悪感につけこんだ脅し」で、毒親の常套手段です。
最終的に貴乃花よりも母親を選択したのは、りえさん自身でしたが、19歳という若さであのお母さんに対抗することは難しかったでしょう。
しかし今となってですが、「理想の家族」と言われてた名門・花田家の没落、格式の高かった相撲協会の没落…宮沢りえがああいうカネや名誉の亡者団体や家族に関わらなかったことについては、結果オーライだったのかもしれませんね。
貴乃花「幸せそうでほっとした」
最近、相撲協会を退職し、さまざまなしがらみがなくなった元横綱・貴乃花が、瀬戸内寂聴さんと対談しました。
宮沢りえさんは、今はV6の森田剛さんと結婚しています。
瀬戸内寂聴さんは宮沢りえさんとも交流があり、時々連絡を取り合うそうで、今の幸せな生活を貴乃花に伝えると、顔を緩め、「幸せそうでほっとしました」と言ったとのこと。
良かったですねえ。
まとめ:芸能界で生きていくって大変なんだな
と、宮沢りえさんをテレビなどで見るたびにしみじみ思います。大手芸能事務所に所属しないで何とか食い込んでいこうとすると、ここまでしないといけないんだ……。
光子さんは、とにかくすごい母親でした。カネに汚い、強欲、娘を利用しているなどなど、とにかくさんざんな言われようでした。
しかし「女優・宮沢りえ」は、そんな光子さんがプロデュースした、誰も文句のつけようもない「最高傑作」です。
もし宮沢りえさんが母親の圧力に屈せず貴乃花と結婚していたら、うまく女将業をやれていたでしょうか(女将業はめちゃくちゃ大変ですけどね)。
貴乃花の破局後、かなり長く精神的に不安定な時期が続いたので、そうとうショックだったはず……リアルタイムで見ていたのですが、本当に気の毒でした。
貴乃花も、周囲から「りえさんは女将さんに向いて無い」と、かなり圧力をかけられたトラウマで、その後の洗脳騒動などを含め、家族との関係を全て断ち切るなど、屈折した方向に向かってしまったでしょう。
すべて「今思えば」ですが、りえさんはあの時点で貴乃花と結婚して女優業を辞めて結婚して、今回の河野景子さんのように離婚しても、(貴乃花には悪いですが)その話題性を手土産に、バラエティ番組出演や女優復帰はできていたのかな?とも思います。
あの時はりえさんはまだ20歳前で、母親のお人形さん状態でした。
仕方ないといえばそれまでですが、最近あまり目立った活躍がないりえさんが、ちょっと心配です……。
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