いま、本当に息苦しい世の中ですよね。
自分ひとりやっていくのだってハードなのに、子供を持ったらさまざまな制約が課されます。
夫や子供の世話をしていればいいというだけでなく、義両親の付き合い、ママ友の付き合い、PTAの付き合い、地域との付き合い……子供を持ったらあらゆるコミニュティに強制的に組み込まれ、これらすべての場所で完璧に振舞わなければ地獄が待っています。
結婚するまではいいけれど、安易に出産すると人生が一気にハードモードにギアチェンジ、不幸に転落しなければラッキーという世の中。
ありとあらゆる制約に従順に従い、「世間が要求するハードル」をクリアしなければ「母親失格」というレッテルを貼られてしまいます。
そんなドツボにはまった「山田みつ子」という女性がいますが、この人は毒親育ちのコミュ障で、まさに子供を産んで不幸になったタイプ。
夫とふたりだけなら、それなりにやっていけたのではないでしょうか。
山田みつ子の経歴、父母との関係
あと少しで2000年になろうとしていた11月に痛ましい事件が起きました。
自分の息子と同じ幼稚園に通う子供の妹である2歳8ヶ月の女の子を殺した罪で、山田みつ子は逮捕されたのです。
そんな、山田みつ子は1964年に静岡県大井川町で生まれ、実家は土建業を営んでいます。
自営業を営みながら、先祖代々の田畑を守っていたので、山田みつ子の両親と妹を含む8人が暮らし、祖父の後妻である祖母が実権を握る昔ながらの家です。
家庭内の関係は悪く、祖母は近所の人に両親の悪口を吹聴し、その事実をメモで両親に教えるくらい、山田みつ子は家庭をよく思っていませんでした。
父も母も山田みつ子の力にはなってくれず、満足なコミニュケーションも取れない親子関係で、彼女は10代の頃にコミュ力をまったく鍛えられなかったのです。
狭い人間関係が嫌、という気持ちが強かったのに、農作業を手伝ったりするような真面目すぎる性格が形成されていきます。
中学に入学後、盲腸で入院した際に看護師から親切にされたことをきっかけに、看護の道を目指すようになりました。
この頃から、自分に優しくしてくれた人に共鳴する性格だったように感じます。
看護師になろうと決めてから、勉強を頑張り、学級委員も務めるくらいの真面目な気持ちを持っていました。
ただ、山田みつ子は中学時代から真面目な部分とラフに構える部分のバランスが悪いようで、時々行き過ぎた正義感で同級生から批判を浴びました。
看護学科のある高校に進学し、卒業後は短大に進学。
埼玉県の短大だったので、1人暮らしを始めます。
高校時代も短大時代も非常に真面目で、真面目すぎるくらいの性格だと周囲から言われていました。
短大2年の時に、心のバランスが完全に崩れていきます。
きっかけは些細なもので、糖尿病患者の食事治療を学び、カロリー制限すれば痩せるんだとダイエット感覚で始めたようです。
しかし、真面目だからなのかまだ考えが若かったのか、かなり極端な方向に進み、1日の食事はゆで卵1個と納豆半パック、菓子パン1つという栄養も何も考えられたものじゃないメニューを毎日食べていました。
その結果、3ヶ月の間で10kg減、体重30kg台になっていました。
ここで不思議なのが、周囲の先生や友達はどう思ってたのかな?と。
30kg台って、相当だと思います。
服を着てたって、痩せてるだろうし、急激に痩せたわけなので全然健康的には見えなかったはずです。
でも、誰も心配したり声をかけたりした様子はありませんでした。
山田みつ子本人も、栄養状態が悪いことで精神状態がハイになっていたようで、毎朝縄跳びをしたり、電車に乗るのもやめて自転車で実習先へ行ったりしていました。
しかし、この頃自分が摂食障害ということには気付いていたと話しています。
夏休みに実家に帰った時、今度は一転して過食モードにはいり、体重が増え、学校が始まってもおさまることのない食欲に精神が不安定になっていきました。
この時、短大をやめようと思ったらしいですが、先生と友人から止められて卒業しています。
それ以外にも言うことはあったんじゃない?と思いますが、無事看護師の資格を取得した山田みつ子は故郷に戻って医大の付属病院に就職。
ですが、病院は患者の死を目の当たりにしたショックで1ヶ月足らずで退職し、実家に戻り、山田みつ子本人が「人生の傷」と呼ぶほど自堕落な生活を1年8ヶ月。
自己嫌悪に陥り、自殺未遂を起こしています。
22歳の時、静岡市の日本赤十字病院に就職して、再度1人暮らしを始めた山田みつ子はまた、悪い癖が再燃します。
過食が始まり以前なら食べっぱなしで太り続けていたはずですが、この時は同僚の看護師から「食べても吐いたら太らないよ」と悪魔の囁きを受け、食べては吐いてを繰り返していきます。
山田みつ子は、結局結婚するまで摂食障害に苦しんでいました。
病院を辞めては、実家に戻って睡眠導入剤で自殺未遂を繰り返し、摂食障害も改善の兆しは見えなかったんです。
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僧侶の夫について
山田みつ子は、夫とは摂食障害で苦しんでいた頃、南無の会の研修会に母親と一緒に参加した際に出会い、しばらくの間は頼りを交わすような間柄でした。
山田みつ子が28歳の時に、自己啓発セミナーにハマっていたようで、勧誘の電話を夫になる人にもかけた際にセミナーはやめた方がいいと忠告され、これをきっかけに仲が急速に深まっていきました。
恋愛はどこに転がっているかわかりませんね!
山田みつ子が29歳の時に結婚し、文京区音羽のマンションに住むようになります。
僧侶である夫は自宅近くの寺で副住職をしており、後々僧侶になると言われていましたが、どうも住職は身内を住職にしたかったようで、副住職である山田みつ子の夫のことは実質飼い殺し状態。
クビにはできないから、とにかく激務を背負わせ、副住職の妻である山田みつ子にも休日が一切ない状態を作ったようです。
実際、山田みつ子は寺の手伝いを理由に、実父の葬儀にさえ参加できていません。
夫自身も超合理主義者で部屋にカーテンはつけない、新聞はとらない、ゴミの処理方法や洗濯物の干し方までを指示。
これじゃあ、休まる暇はないですよね。
夫は日頃から山田みつ子から、被害者の母親に関していろいろ愚痴を聞き、幼稚園を変えたいと相談されたこともありました。
ただ、長男が拒否したこともあり、夫「関わらないようにしたらいいよ」と言うだけでした。
よーするに「くだらん。放っとけ」ですね。完璧な答えです。ザッツパーフェクト。
しかしこれで穏やかに人生過ごせるようになったらどんなにいいか。
事件直前には、長男に暴力をふるい自分に食ってかかる妻に対し、ただ止めただけで何もわかってあげられなかったと、事件後に話しています。
被害者の女児の母親について
被害者の母親とは、山田みつ子が長男を出産後に自宅近くの公園で知り合いました。
2人とも同じ月齢の赤ちゃんを連れて、誕生日も2日違いとなればもう運命を感じてしまいます。
すぐさま電話番号を交換して、電話のやりとりやデパートに買い物に行くなど親しい付き合いが始まったようです。
ただ、被害者の母親は、4年制大学を卒業し、OLで働いた後、資産家の御曹司と結婚。
山田みつ子の人生とは、クロスしないような人でした。
長男が1歳半になる頃、山田みつ子は被害者の母親との性格のズレを感じ、付き合いに疲れを感じるようになりました。
裁判では、被害者の母親も同時期に山田みつ子との関係に疲れや息がつまるような感覚があった、と話しているので間違いはないのでしょう。
仲が良くなるにつれて、お互いの価値観の相違が出てきますし、それは他人同士なので当然です。
でも、それが山田みつ子は許せなかった。
徐々に交友関係が広くなっていく被害者の母親に対して、山田みつ子は一方的に憎悪や焦燥感を感じていたようですが、事件当初はまるで被害者の母親がママ友内で山田みつ子を省き物にしたせいで子供が殺されたように報道されてしまっています。
よくよく知れば、被害者の母親が話したことは少し身近な友人としてならそんなにひどいことではありませんし、山田みつ子の消極的な性格がなければ他のお母さんとも仲良くやれたのでは?という感覚です。
結局、山田みつ子に被害者の母親は依存されてしまったと言えます。
犯人夫婦のその後
事件後、僧侶の夫と子供達は寺や自宅から離れていますが、どこにいるかは不明です。
しかし夫は、事件後も「責任を持って離婚しない」と話しており、山田みつ子との関係は続いているのではないか、と考えられています。
2002年11月26日に、東京高裁で懲役15年の判決が下り、同年12月には被害者遺族への損害賠償として6,100万円の支払いが命じられました。
そのうち、1,970万円は、被害者の月命日に8万円ずつ20年かけて支払って欲しいという被害者遺族の請求どおりの判決が出ましたが、実行されていないようです。
被害者遺族が山田みつ子に請求書を何度か郵送していますが、返信がない状態が続き、2019年の現在どうなっているかは闇の中。
もう、山田みつ子は出所しているのではないか、と考えられています。
山田夫妻のその後は、不明です。
まとめ:コミュ障が母親になるのはハードモードすぎる
今の時代、メンタル超絶強い人じゃないと、母親になる資格はないのです。
山田みつ子はその家庭環境からコミニュケーション能力が育たず、繊細であるがゆえに他人に依存する性格になってしまいました。
今の世の中、「女の幸せは結婚して子供を産むこと」は、真っ赤なウソです。
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