フレアバーテンダーの富田晶子さんという美人をご存知ですか?
フレアバーテンディングとは、ボトルやシェーカー、グラスなどを用いた曲芸的なパフォーマンスによって、カクテルを作り提供するスタイルのことです。
「フレア」っていうのは「瓶」や「ボトル」という意味で、この瓶を4~5空中にくるくる放って、ホイホイ大道芸的なパフォーマンスしている人を時々見ますよね。
それをバーなどのカウンター内で、点火したウイスキーを2つのグラス上で交互に移し替えたりするパフォーマンスをする人です。場が盛り上がるんです。
近年は国際的なパフォーマンス競技として認知されてきて、2009年、グアムで開催されたフレアの国際大会「Jam Session 2009」で世界初の女性での優勝したのが、この富田晶子さん。
この時の大会で、日本代表の晶子さんが、5ボトルを操る技「カスケード」を発表してみごと優勝しました。
この「カスケード」という技は、男性を含めて世界で5人しか使える人がいない超絶技巧です。
晶子さんは、女性フレアバーテンダーとしては世界的にも珍しい、4本のボトルを自由に操る、実力派のフレアバーテンダーです。
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富田晶子さんのプロフィール・経歴
↓↓↓基本的なプロフィールはこちら。
本 名 | 富田 晶子 |
---|---|
職 業 | フレアバーテンダー、モデル |
生年月日 | 1980年3月11日(2018年で38歳) |
出 生 地 | 新潟県 |
血 液 型 | A型 |
資 格 | 剣道2段、日本舞踊10年、少林寺拳法、 茶道、情報処理検定3級、国際運転免許証 |
ご覧のとおり、教養あふれる、まさに「越後のお嬢様」です。
年齢を聞かれた時には「24歳」と、かなりサバを読んでいたことを告白されていましたが、あるテレビ番組の中で本当の年齢を囁いていました(笑)。
それでもやっぱり24歳にしか見えない、美しい晶子さんの壮絶な半生を追っていきましょう。
晶子さんは新潟県生まれ。
母親日舞の師匠で、父親は教職員で剣道の先生。
実家はたいへん厳格な雰囲気で、晶子さんの人生は、今後も堅実で安定な人生を歩んでいくであろうと誰もが(本人も)思っていました。
しかし晶子さんは、足首ぐらいの小川の流れでも河口まで流されてしまうような、自称「自分がないふわふわ女子」だったのです。
10歳の小学校時代が晶子さんの人生前半ピークで、このあと晶子さん怒涛の「流され人生」がはじまります。
日舞を習うお嬢様が、ギャルになる。
1995年、高校生になった晶子さんの環境は、アムラーが大人気、大型ギャル雑誌が相次いで創刊されるなど、ギャルが大流行していた時代でした。
当然のように周囲に流され、日舞やってた大人しい女の子が、すっかり「ギャル」になってしまいます。
・寒さが厳しい新潟でもミニスカ死守
・学校サボりまくり
・雑居ビルの屋上で昼寝、時々補導される。
・眠くなったら道路の上で熟睡
・新潟に唯一あった日焼けサロン・クラブ通い
あまりのギャルギャルしさについたあだ名が、「越後のブラックダイヤモンド」(嘘)。
「自分より黒い人に負けたくなかった。けっこう輝いていたと思う」とは、本人談。
交通事情が不便だったで、「前のり」で、いろんな女友達の家に週3くらいで泊まり歩くという高校生活。
学校の成績は悪く、見事におバカギャルになってしまいました。
ちなみに髪を染めていましたが、もちろん厳格なお父さんはそれを許すはずもなく、常に頭にタオルを巻いてごまかしていました。
「なぜタオルを巻く?」
とお父さんに聞かれても、
「今日はちょっと寒くて…」
でごまかしていたそうです。
新潟だから大丈夫だったし、お父さんは晶子さんを信頼していたんですね^^;。
晶子さんの上京物語
憧れの渋谷に行ったとき、109の前をうろちょろしていると、色黒でロン毛の男性に声をかけられ「モデルを探しているのでやらない?」と声をかけられました。
新潟の田舎の少女にとって、「東京の人イコールキムタク」という認識です。
スカウトマンにそのままついていったら、事務所に連れて行かれて「特技を見せてください」とさっそくオーディションが始まります。
日舞や剣道を披露するのはさすがに罪悪感があったので、明るい晶子さんは「逆立ちしまーす」と言って、そこで生まれて初めて逆立ちをしました。
当然失敗するのですが、持ち前の明るさでへらへらしてごまかします。
この明るさがハマったのか、ちゃっかり事務所に所属することが決定。
グラビアアイドル「富田晶子」としてデビューすることになります。
しかし、晶子さんの芸能活動はうまくいきませんでした。
なぜなら、晶子さんと同じギャル属性で売り出していた安西ひろこさんブームとキャラかぶりをしてしまい、なかなか人気が出なかったから。
流されてグラビアアイドルになったものの、お給料は月3万円。
ひじょーに雑な扱いをされた上に謎のレッスン料が引かれ、まともにお金が手元に残りません。当時は、本当にお金が無かったそうです。
寝坊してレッスンに行かなくてもレッスン料はひかれ、超ジリ貧状態になり、いろんなアルバイトをして極貧フリーターになってしまいます。
イベントコンパニオン、漫画喫茶、ティッシュ配りと、バイトはなんでもやりました。
レストラン&バー「FRIDAYS」の出会い
この時晶子さんは、一番長く働き、貴重な収入源であり、カジュアルレストラン&バー「FRIDAYS」で働いています。
しかし晶子さんはここからも見事に転落、「メニューを見事にまったく覚えられない問題」にぶちあたります。
曰く、「サラダにどうしてこんなに長いカタカナの名前が付くのかわからなかった」。
注文されたメニューを「すべてシャキシャキサラダとして出す」という荒業を1年くらい通した度胸は、すごいものだと思います。
しかしそんな「シャキシャキサラダ生活」も、お忍びでお店の状況をチェックしに来ていた幹部のお偉いさんに見つかってしまったことで、ホール係をクビになってしまいます。
ホール係をクビになっただけで店を辞めさせられたわけではなく、バーテン係に強制的に異動になっただけなので、晶子さんは頑張ろうと気持ちを奮い立たせました。
しかし、ここでまたもや「カクテル全然覚えられない問題」が勃発してしまいます。
やる気はあるけど記憶が抜けてしまう…。
一計を案じた晶子さんは、今度は注文を取りに行くときに、空ビールグラスを持って「今日はビールがキンキンに冷えてます!」で、カクテルを注文されないようにしていたとか(笑)。
※この作戦で、けっこうビールを注文してくれたようです。
しかしここフライデーズで「フレアショー」を生まれて初めて見た晶子さんは、ぴこーんと閃きました。
「あれ上手くなったら、自分の芸になるかも!」
「メニュー覚えなくていい!!」
一瞬で「フレア」に取り憑かれたそうです。
この時から瓶を使って練習し始めます。
なんと、1日15時間に及ぶ練習をしました。
「この技がやりたい!」と思ったものに、晶子さんは出会ってしまったのです。
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晶子さん、ホームレスになる(が、本人にその自覚なし)
本業のタレントは廃業状態でした。
この頃、実家のお母さんの容態が悪く、新潟に帰る頻度が高くなってきています。
トータルで5年くらいの介護生活。
バイト代も新潟と東京を往復する交通費に消え、お金は相変わらずなかったですが、前向きになると運気も上向くのか、ここで晶子さんはあるラッキーに遭遇します。
38万円入りの封筒を拾い、警察に届けたのです。
これがのちのち、重要な伏線になります。
ついにお母さんの容態が悪化し、晶子さんは新潟に帰ることを決心しました。
介護むなしく、まもなくお母さんは死亡してしまいます。
親孝行できなかったことを悔しがって涙にくれる晶子さん。
そんな娘を見てさらに悲しむお父さん。
「これ以上こんな私が家にいたら、お父さんはよけいに落ち込む」と思った晶子さんは、泊まるところもないのに、ビン4本だけを持って東京に戻ってきたのです。
行くあても全くなかったのですが、「あれ、よく考えれば家ないや?」という感じだったそうです。
とりあえず、よく練習をしていた馴染みの公園で生活を始めることにしました。
今まで計画を立てたことのない生き方。
流れ流され、とうとうホームレスに。
※本人は「公園に住んでただけなのでホームレスではない」と訂正しています。
全てをフレアに捧げる
今までのふわふわした自分を捨て、公園でフレアに全てを捧げる生活が始まりました。
とりあえず8時間、公園で来る日も来る日もフレアの練習。
この頃、晶子さんはまだ20代です。
よく何もなかったなと思うのですが、公園には先住民のホームレスさんがいたので、「○曜日にあそこでごはんもらえるよ」など、生活の知恵をいろいろ教えてくれました。
ホームレスを始めた頃は5月だったのですごしやすかったこともありましたが、何より「ゴリゴリギャル時代」の経験が生きてきたというのですから、
・雑居ビルの屋上で昼寝してた高校時代だったから別に公園のベンチで寝るの平気
・新潟の冬にミニスカ⇒東京の寒さ超余裕
人生、何が幸いするかわかりません。
晶子さんはこのホームレス時代公園で生活していた時代を明るく語りますが、
・瓶で生傷だらけ
・瓶が無断でゴミ回収される(晶子さんにとってはお財布を盗まれたのと同じこと)
・ライバルのホームレスと縄張り争い(自分の寝床(ベンチ)でおじさんが勝手にごはん食べてる)
など、いろいろなことがあったようです。
屋根の下に戻る
公園の生活を2週間ほど続けると、夏にさしかかる頃です。
あるとき、あまりにも日差しがまぶしくなり、「屋根がほしい!」と思うようになりました。
森の中は場所を取られてるので、以前アルバイトをしていた漫画喫茶を思い出し、そこにかけこんだのです。
以前のバイト仲間が「2番の席空いてるからタダで使っていいよ」と言ってくれました。
シャワーは有料でしたが、漫画喫茶で2泊くらいして、そこでバイトしながらもとの中野の公園にもどって練習して……という生活を3ヶ月ほど続けました。
ある日、満喫で疲れて寝ようとすると、ボリボリボリボリと不思議な音が聞こえてきます。
向かい側のブースの人が、「とんがりコーン」を大量に食べ続けて、その音がうるさくて非常に耳障りに感じ、眠れなくなった晶子さん。
漫画喫茶の棚に並べられていたとんがりコーンを隠しても、そのお客さんは別のコンビニでとんがりコーンを買ってきてまたボリボリしてます。
晶子さんは切実に「ここを出たい!」と思うようになりました。
この生活から逃げ出したい!部屋を借りたい!でも、部屋を借りるお金がない!!
(ぴこーん)
以前拾って警察に届けたあの謎の38万円! 落とし主が現れてなければ、受け取ることができるかも!!
速攻で警察に電話しました。
結果は一定期間経過し、落とし主も現れていなかったため、晶子さんはみごと合法的に38万円ゲットしたのです!
晶子さんはこのお金で部屋を借り、満喫生活を脱出することができたのです。
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フレアやっている時が一番幸せ。どんな時もフレアに助けられた。
晶子さんは、そのような境遇にあっても、毎日10時間のフレア練習を欠かしませんでした。
そしていつの間にか、その実力はとんでもないことになっていて、大舞台の経験ゼロなのに腕前は世界クラスになっていたのです!!
ずーーーっとフレアを練習して10年間、全然あきなかったのだそうです。
ごはんも友達とのランチも興味がなく、友達とランチ食べるくらいだったら練習したい、というくらいフレアに夢中になっていました。
Youtubeの動画をよく見て研究しているうちに、ホイホイホイホイできるようになってしまったとのことです……。
そして編み出した必殺技をご覧下さい、「Shoko・クワトロ・フラミンゴ」を!!
4本の瓶を途中で一本、足にはさみ、一本足で立って瓶を操る晶子さんのオリジナルの大技です(1:30~)。
そして5本の瓶を操る「カスケード」という技も習得。
冒頭でも触れましたが、「カスケード」ができるパフォーマーは、世界でたったの5人です!
これだけ打ち込めるものに出会えた人生って、素晴らしいと思いませんか。
2007年、RedBearEnagyコンペティション 準優勝、
2008年、横浜市長杯コンペティション 準優勝を経て、
2009年、28歳の時、グアムの世界大会で大技を連発し、晶子さんは見事に優勝したのです。
ただの優勝ではありません、フレア界初の女性優勝者という快挙でした!!
感動に包まれた会場は総立ち、いつまでもスタンディングオベーションが続いたとか。
ここで、晶子さんはエンターテイメントのプロの道に入ったのです。
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※ショーの内容については、いろいろ柔軟に対応してくれるようです。
2016年にはニューヨークのアポロシアターにも出演しています。
アポロシアターは、数多くの有名ミュージシャンやダンサーを生み出してきたパフォーマーの憧れの舞台。
その中でも1934年以来、由緒ある人気イベント「アマチュアナイト」に出演しています。
現在はフレアバーテンダーとして、プロのパフォーマーとして、国内外で年間200本のショーに出演しています。
世界初の本格的日本人女性フレアパフォーマーの第一人者としてレギュラー出演番組、雑誌、メディアなどで幅広く活躍中です。
海外などでも、幅広くパフォーマンスや、メディアにも出演しています。
まとめ:考えるな感じるんだ
自称「流され女子」の晶子さん、新潟で一人暮らしのお父さんには、グラビアアイドルのこともホームレスしていたこともまだ言ってないそうなんです(笑)!
しかも、まだ独身なんですねえ。生身の男性よりフレアの方が面白いのでしょう。
本人も言っているとおり、確かに行き当たりばったりの人生ですが、目の前の「楽しいこと」に夢中になって極めた結果が、現在の晶子さんの姿です。
若いうちから老後のことなど考えたり、変に考えすぎて人生の落としどころを決めたりせず、自分で見つけた一芸を夢中になって極めると、思いがけない人生が開けるのですね。
瓶を自在に操る時の晶子さんは、本当に嬉しそうで幸せそう。
グアムの世界大会のスタンディングオベーションの興奮を忘れられず、「お客さんに楽しんでほしい!」「オリジナルの世界感を持ち、自分だけのストーリーショーを作り、世界各国で披露したい」という一心から、この仕事を続けています。
お父さんにとっても自慢の娘なのでしょうね。
今後の富田晶子さんの活躍を、とっても期待してます!!
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