舛添要一は片山さつきの元夫!嫁と愛人6人に子供5人の一夫多妻制を施行

前都知事の舛添要一さん。

東京都知事は13兆円という途方もない予算を掌握するため、強大な権限を持つ立場にあります。

2014年、獲得票数211万票で東京都知事に当選しました。この中にどれだけの女性票がいたのでしょう。

そこらによくいるDV夫よりも、さらに一回りヤバイ人でした。

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舛添要一のプロフィール

何はともあれ、まずはプロフィールを。

生年月日 1948年11月29日(2019年で71歳)
出生地 福岡県八幡市(現:北九州市)
家 族 両親・姉4人の末っ子長男
出身校 東京大学法学部第3類卒業
前 職 国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員・教授
経 歴 参議院議員(2期)(2001-2013)
厚生労働大臣(第8・9・10代)
新党改革代表(第2代)
東京都知事(第19代)(2014-2016)
現 職 株式会社舛添政治経済研究所所長
一般社団法人地域経済総合研究所評議員
配偶者 フランス人女性(1978年 – 1981年)
片山さつき(1986年 – 1989年)
舛添雅美(1996年 – )
語 学 英語、フランス語、ドイツ語、
ロシア語、スペイン語、イタリア語

舛添家は、江戸時代から続く庄屋の家系でしたが、舛添さんの父親の代は石炭商で裕福ではなく、商いを八百屋に変えてたもののうまくいかず、小学2年の時に近くの材木店の火事で火が燃え移ってしまって廃業、それ以降は母親やお姉さんたちの働きで糊口をしのぎました。

一家で唯一の男の子ですし、本人も貧困から抜け出そうと勉強を頑張ったのでしょう、東京大学法学部では第3類(政治コース)に進学し、卒業後も東大に法学部助手として雇われ、国際関係論を研究し、渡仏までしています。優秀だったのですね。

その後もずっと東大で助教授などをつとめましたが、40代後半頃からテレビの討論番組によく出るようになり、50歳の時に退官して独立、「舛添政治経済研究所」を設立しました。

要するに、この年齢になって東大教授にはもうなれないことがわかり、じゃあタレントで名前を売ろうとしたわけです。

国際政治学者としての肩書きで、これ以降もよくテレビのバラエティ番組などによく出演していて、知名度は高かったです。「ああまたあのハゲっぽい目の大きなおじさんだなー」と思って見てました(笑)。

その後、国政に出て参議院議員を2期12年もつとめ、この間に参議院自由民主党政策審議会長、厚生労働大臣(第8・9・10代)を歴任しています。

もともと自民党でしたが、2008年に離党、荒井広幸(現在は内閣官房参与)氏らと合流し、新党改革代表(第2代)に就任しましたが、この新党は、あんまりイニシアチブ取れてなかったと思います^^;。

参議院議員の2期目の任期を満了すると再出馬はせず、厚生労働大臣をつとめた実績をもって東京都知事選に立候補し、当選しました。

舛添要一の結婚歴と女性関係

舛添さんの結婚歴は、なんと3回。いえ、真実は4回。

語学に堪能なので、コミニュケーション力は高いのでしょう、また、たぐいまれな男性的魅力を持っているようで、「永田町イチの艶福家」として知られていました。

フランス人女性と結婚(1978年 – 1981年)

最初の結婚相手との出会いは、舛添さんが東大法学部卒業後のヨーロッパ留学中。

帰国後の1979年、舛添さんは31歳の若さで東大教養学部の助教授に就任しましたが、結婚生活3年で1981年に破局を迎えてしまいます。

このフランス人女性の父親が南フランス出身でイタリア人の親戚が多かったため、舛添さんはイタリア語を学びました。

この女性との間に子供はおりません。

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片山さつきと再婚(1986年 – 1989年)

今や内閣府特命担当大臣となった片山さつき氏と舛添さんは、一時期夫婦だったのです。

片山さんは当時27歳の大蔵省エリート。

当時はこのくらいの年齢になると結婚するものだったし、お見合い結婚でしたがそれもまだまだ普通でした。

しかし結婚してからもこのままキャリアを築いて行きたかった片山さんには、なかなかいいお相手が見つかりません。

そこを故・近藤鉄雄元衆議院議員の紹介で舛添さんを紹介されて結婚しました。

当時、すでに東大助教授だった舛添さんは、片山さんの仕事に理解を示し、「同期や教え子に官僚がいるから、生活はだいたいわかる。仕事で遅くなっても構わない」と発言。

ゆえに片山さんは、この人となら仕事と家庭を両立できると考えて、結婚を決意します。

結婚するとき、相手に離婚歴があるというので親戚中に猛反対されましたが、結果は、2年半(実質3ヶ月)で破局。原因はやはり5000%舛添さん側にありました。

結婚して平穏だったのは最初の数週間だけで、突然「女のくせに遅く帰ってきやがって!」と突然、舛添さんが怒鳴り始め、態度が豹変。

怒りはじめたら手がつけられず、怒鳴る、手当たり次第にモノを投げつける、ある時には趣味で蒐集しているサバイバルナイフを片山さんの目の前にズラーッと並べたこともあるそうで、モラハラ夫を通り越してもはやDV夫です。

片山さんは「舛添さんと結婚したことがそもそも間違いであったと思います。愛のない結婚をしてはいけないということ。私の人生におけるたいへん大きな間違いだった」とまで言ってます。すごい言われようですが仕方ありません。

舛添さんが危険な男性だと気づいた時点ですぐに弁護士に相談しましたが、舛添さん側がなかなか離婚に応じなかったため、離婚までに2年3ヶ月かかりました。

世間体だけでしばらく仮面夫婦を続けていたということですが、まあ、国会議員の紹介によるお見合い結婚でしたから、後味が悪かったのでしょう。

結婚もカネ目当て

後に片山さんは語りますが、「舛添さんは利用できる人はなんでも利用する人。彼にとって他人は、利用する、あるいは寄生する対象でしかない。私との結婚も、大蔵省の女性キャリアという肩書を利用したかっただけ」と一刀両断。

まず、結婚する時になぜか新聞記者に自分の結婚の事を話し、報道してくれるよう依頼したのです。

片山さんは、省内の関係者へ結婚の挨拶するよりも早くニュースで報じられてしまい、なぜそんなことをするのか、結婚前から違和感を感じていました。

結婚してしばらくたつと『大蔵省の女性と結婚したから、さぞ金回りがいいだろう、と友達に言われたのに、何ひとついいことがない』と言われたとか(゜д゜)。

当時の片山さんはまだ係長で、手取りは20万円ちょっとの安月給だったのに、5万~10万円、お金を入れさせられたとか……ほんと寄生虫ですね。

実はバツ2

弁護士さんに調査を依頼したところ、バツ1ではなく、どうやらバツ2だったそうです。フランス人女性の前にも、日本人女性と結婚・離婚した経歴があったそうです。

片山さんは憤慨しています、「バツ2だったら、絶対、結婚していません。詐欺だよ。知っていたら結婚しなかった」と怒っていました。

これはいくらなんでも片山さんが気の毒すぎます、というか、お見合い紹介したほうが悪いでしょこれ。紹介した方は、絶対知ってたでしょ。

親族への養育費もケチるケチる

離婚して約12年後、元夫の舛添さんが自民党公認で参議院議員選挙に立候補したとき、当時の安倍首相が、元妻の片山さんに「舛添さんの支援」を依頼したことがありました。

安倍首相のこの要請に、片山さんは次の点が解決されれば可能だ、と回答しています。

・現時点では舛添氏は、障害を持っている自身の婚外子の扶養について家庭裁判所で係争になっている。パラリンピックを含めた五輪開催を前にして、この問題は重要である。

・家族の絆と自助・共助・公助を基本とする保守政党の自民党の理念に照らせば、実姉への扶養義務を拒否している舛添氏の支援は困難。

要するに、障害のある実子の生活費は値切らずちゃんと払うことと、実姉の生活の扶助くらいきちんとやれよ、ということですね。

クリアするにはハードルが少々高く、実質的な「支援拒否」に思えます^^;。

その後のことは聞こえてきませんが、結局はどうなったのでしょうか。片山さんは、結局舛添さんの応援演説に立つことはありませんでした。

さらに、離婚して25年以上が経過し、舛添さんが東京都知事になって政治資金問題が取りざたされると、マスコミは元妻の片山さつきさんのコメントを取りに行きました。

あいかわらずセコい、小さい、哀しい。結婚して28年ですが片鱗(へんりん)としてはセコいな、細かいところは全然変わってないな、という感想は持ちましたけどね。

と、結婚当時から舛添氏の性格が変わっていないことを、バッサリぶった切っています。気持ちは分かります。

その後も、舛添さんのことを触れるときは、かなり辛辣な肘鉄を入れながらコメントすることを忘れていない片山さん、そうでしょう、そりゃそうなるでしょう。

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1人目の愛人・A子さん

結婚してからたった3ヶ月で音を上げた片山さんは弁護士に相談しますが、その弁護士の調査で、なんと妊娠中の愛人・A子さんの存在が発覚(のち、男の子を出産)。

この人は舛添さんの東大時代の元教え子で、舛添さんからの猛アプローチだったそうです……。ええと、東大出の才女だったということですよね。

A子さんと子供(重度の障害を持っているそうです)に対しては、子供が生まれてしばらく経ってから開口一番、『2千万円でいいですか』。

つまり金は払うから、障害を持っているこの子の認知はしない、養育費も払わない、今後いっさい面倒をみないという意味で、A子さんと子供を切り捨てるための手切れ金として、いきなり『2千万』と通告しました。

結局は認知しましたが、その後は養育費の振込だけが唯一の繋がりで、子供が学校でイジメに遭おうが、病気で入院しようが、舛添さんからは電話の1本もなかったという状態が長く続きます。

これが2013年頃、舛添さんが参議院議員の時に弁護士名義で一通の手紙があったそうです。

内容は『自分の年収が激減している。子供も自立したのだから、月額22万円の扶助料を減らしたい』という通告、とうて承服できないA子さんと舛添さんの間で調停になりました。

今ではA子さんは舛添さんのことを「最低男」と蔑んでいます。

2人目の愛人・B子さん

怒髪天の片山さんが、舛添さんとA子さんの部屋に踏み込むと、まっさきに逃げた舛添さんの行く先は、2人目の愛人・B子さんの部屋(のち、1990年、1995年に女の子を2人出産)。

このB子さんは、A子さんとは違って、しばらく舛添さんと関係を続けていました。

一時期、舛添さんは、B子さんと雅美さんとで二股をかけていたのです。

1996年、雅美さんとの再々婚をテレビで初めて知ったB子さんは、舛添さんを相手取り慰謝料1000万円などの支払いを求める民事訴訟を起こしました。

ほか、さらに2人の愛人が発覚

片山さんとの正式に離婚した後の1990年、舛添さんは愛人との間にできた子供を認知しましたが、同時期に他に2人の女性とも交際していたことがわかりました。

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舛添雅美さんと再々婚(1996年 – )

片山さつきさんと離婚して5年後、1996年に3回目の結婚をします。

舛添さん48歳、雅美さん32歳で、実に16歳差でした。

氏  名 舛添雅美(ますぞえ・まさみ)
旧姓:露木(つゆき)
生年月日 1964年1月6日(2019年で55歳)
出身地 神奈川県湯河原市
出身校 聖心女子大学文学部卒業
前 職 美術館学芸員⇒
東大助教授時代の舛添要一の私設秘書
現 職 株式会社舛添政治経済研究所代表

1989年頃、当時東大助教授だった舛添要一の私設秘書として働き始め、7年の交際期間を経て1996年に結婚しました。

片山さんと離婚した当時の舛添さんには、当時は恋愛感情はなかったそうです。

わかっているだけでも4人の愛人たちとは結局籍を入れず、1996年、雅美さんという一般女性と再々婚しています。

雅美さんは、後に問題となる神奈川県湯河原の出身で、周辺には雅美さんの旧姓である「露木性」が多く、実家は昔からの名家だそうです。

江戸時代には、福浦から伊豆多賀までの十数キロの土地を所有していた家柄だったとか。

雅美さんはもともと学芸員でしたが、知人の紹介で知り合い、当時東大助教授だった舛添さんのもとで働くことになりました。

この時の舛添さんは離婚したばかりだし、雅美さんにとっては16歳年上のおじさんでしたが、またもや舛添さんの強引なアプローチにより、交際開始。

その後、雅美さんとの間には、2000年に長女(果連さん)、2003年に長男(龍之介さん)が生まれています。

片山さんと離婚後、舛添さんは1988年にA子さんに男児を産ませ、さらに1990年にはB子さんとも愛人関係となり、女児を産ませ、しかも、その間の1989年に今の雅美さんが舛添のもとで働き始め、すぐに付き合い始めました。

つまりA子さん、B子さん、雅美さん3人が織り成す三つ巴のドロドロ愛憎劇の末、勝ち残ったのが雅美さん、という構図が見え隠れするのです……。

(しかも、夫の愛人や、その子供たちの養育費の振り分け仕分けもすべて雅美さんが行っていました。)

舛添さんは、愛人への出費は「節約」する一方で、正妻の子供たちへは教育費を惜しみません。

長女は幼稚園受験に備え1才から知育教室に通い、2才になるとお受験専門の塾に通い、幼稚園受験を勝ち抜くとすぐに英会話教育に通わせ、バレエや空手の教室にも通わせました。

長男もお受験塾や空手にピアノ、野球教室にも通っています。

最初のフランス人女性と片山さんは、はっきりとものを言うタイプでしたが、雅美さんは落ち着いておっとりしたタイプ。芯は強く出しゃばらないタイプです。

いつも一歩引いて舛添さんを支え、頭の回転も速く、自分の言葉で喋れる女性なので、うまく舛添さんを操縦できているようです。これが秘訣なのでしょうか。

舛添さんは常に頭をフル回転させているような人で、雅美さんも大変でした。

誰しも嘘でごまかしたい時がありますが、舛添さんにはそれが通用しない。あの時あなたはこうだった、ということを全て覚えているということで……モラの特徴ですね、とぼけたふりくらいしてあげればいいのに。

合計すると、2人の愛人が産んで認知した子3人と、雅美夫人との子2人を合わせると、舛添さんには合計5人の子供がいることになります。

雅美夫人との間のお子さんは、まだ未成年なのですね。

まとめ:下半身より財布事情が3馬身はリードしている男性を選ぶこと

紫式部原作の『源氏物語』主人公・光源氏は、何人もの女性を周囲にはべらせたり関係を持っていましたが、あんなことができたのは、「地位も名誉も金もうなるほどあって、もう女性遊びしかほかにやることがない状態」だったからです。

舛添さんのように、あちこち強引に切り詰めたり、障害を持った子どもの養育費さえを値切ったりする身分で一夫多妻制を施行すると、このようにお金と下半身の使い方のバランスが取れていない状態になってしまいます。

公人だったので、なおさら表沙汰になってしまいました。

他にも表に出ないだけで、不愉快な思いをしている女性は大勢いたことでしょう、そういう女性たちの口止めをするためにまたお金が必要で、あれほどの吝嗇家になったのですね。

舛添さんはいつも無理に無理を重ねていて、余裕がないためトラブルになりやすく、さらに攻撃的な性格が合わさって、最後には政治資金問題が大炎上して都知事の座を追われました。

もう少し自分の経済力を客観的に測って、トラブルにならない範囲で女性の人数を絞るべきでした、というか大抵の男性はそうしています。

女性関係が先で、財布事情が後になってるんですよ、ふつう逆でしょ。

舛添前知事が家族、特に子供のことを考えて、今後も活動をしてくれるよう願います。

【参考】

片山さつきの髪型が変!若い頃から検証!美人なのに違和感いつから?

舛添要一はその後現在何してる?学ぼう吝嗇家の節約術!

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