徳川家広の嫁はベトナム人 経歴や家系図、その華麗なるバックホーン

誰もが知ってる学校の歴史教科書の登場人物の子孫が、最近ふたたび表舞台に出てきました。

その名を、徳川家広。

もちろん1600年に関ヶ原の戦いで勝利し、1603年に徳川幕府を開き、その後約270年にわたって日本を支配した一族の末裔です。

徳川家宗家の次の19代当主就任が予定されている人物ですが、どのような方なのでしょう?




徳川家広のプロフィール

生年月日 1965年2月7日(2019年で54歳)
職 業 評論家(政治経済)、翻訳家
言 語 日本語、英語
出身地 東京都
学 歴 学習院大学高等科
慶應義塾大学経済学部
ミシガン大学大学院
コロンビア大学大学院
肩書き 政治経済評論家、翻訳家、作家
徳川宗家次期当主
公益財団法人徳川記念財団理事
長崎大学国際連携研究戦略本部客員教授
早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校特別講演講師
特定非営利活動法人公共政策調査機構顧問

2019年夏の参院選に出馬が取り沙汰されている徳川家広さんは、徳川第19代宗家としても有名です。

徳川家広さんの経歴をご紹介します。小学生時代をアメリカで過ごし、その後は日本に戻り、学習院で学生生活を過ごします(←ほらほらこういう人がたくさんいるんですよ学習院て!なんで悠仁さまをここに通わせなかったのか)。

慶応義塾大学経済学部卒業後、米ミシガン大大学院で経済学修士号を、米コロンビア大大学院で政治学修士号を取得しました。

職業としては作家や政治経済の専門家として活躍されているほか、英語にも堪能で、現在は主に翻訳家としても知られ、多くの著書が出版されています。

代18代当主・徳川恒孝氏の著書を、息子の家広氏が英語に翻訳した『江戸の遺伝子』。

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徳川家広の妻はベトナム人

私生活では、国際連合食糧農業機関ベトナム支部勤務時代に知り合ったベトナム人女性を妻に迎えました。

徳川家は多くの文化財を所有し、祭祀なども多く、管理や保護に力を入れる必要があります。

そのため、徳川家を継ぐ立場にある家広さんの嫁には日本人としての意識が不可欠なので、両親はベトナム人の女性を嫁にはできないと反対したようですが、家広さんはそれを振り切って結婚しました。

子供はおりません。

2019年4月に予定されていた北海道知事選に自民党系の北海道議から擁立論が上がり、徳川家広さんは立候補を模索していましたが、取りやめています。

現在ではYoutuberとして、英語で北海道のPR活動を行っています。

2019年夏の参議院選挙では、徳川家広さんを立憲民主党が静岡選挙区で擁立を調整しています。

北海道知事選とは違い、この参院選出馬がもし実現すれば、徳川家ゆかりの静岡からの立候補となるので、去就が注目されます。

徳川家広の華麗な血縁関係

彼は徳川宗家第18代当主、元日本郵船副社長で徳川記念財団理事長の徳川恆孝さんと、元首相細川護熙の従姉妹にあたる幸子さんのご長男として、1965年に生まれました。

2019年で55歳です。

父である18代徳川恒孝さんはもちろんんこと、曽祖父の代には

・徳川家第16代宗家徳川家達(大政奉還した慶喜の子)、

・第11代佐賀藩主鍋島直大、

・第12代薩摩藩主島津忠義、

・第9代会津藩主松平容保と、

幕末期に活躍したそうそうたる人物たちの血を受け継いでいます。

なんか幕末にいろいろあった昔の外様大名と縁戚関係を結んでいるのですが、関係修復のためでしょうか?

18代当主である父親の徳川恒孝さんの叔母である勢津子さんは、大正天皇の第二皇子である秩父宮雍仁親王の妃となりました。

このように、江戸幕府時代さんざんいじめた朝廷まちがい皇室とも血縁関係を結んでおり、倒幕後も全国に磐石の支持基盤を着々と築いていたことが伺えます。

18代当主である父親の恆孝さんは会津松平家に生まれましたが、第17代徳川宗家であった家正さんが亡くなり、長男の家英さんは早世していて後継ぎがいなかったので、徳川宗家の養子として後を継ぐことになりました。

また妻の幸子さんは、明治時代に外務卿として活躍した寺島宗則の曾孫にあたり、五摂家筆頭である近衛家や、旧岡山藩池田家とも縁戚関係にあります。

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徳川家の戦後の家系図は?

倒幕後の徳川宗家の生活は、大変なものでした。

第15代徳川宗家であった徳川慶喜は、戊辰戦争で朝敵となってしまったため、これは本意ではないと恭順を示すために寛永寺で謹慎生活に入りましす。

その後、新政府軍へ江戸城明け渡しの際、旧幕臣や彰義隊が慶喜を利用して暴発することを防ぐため、水戸へ移りましたが、徳川家の駿府への移封に伴って、慶喜も駿河で謹慎生活を続けました。

慶喜の謹慎生活は戊辰戦争終結によって解かれます。慶喜は1902年に公爵を授けられ、その後徳川慶喜家を立てることになります。

徳川宗家自体は、慶喜が謹慎の際に隠居していたので、存続が危うい状況にありました。

しかし第14代将軍であった徳川家茂に嫁いだ皇女和宮や、薩摩藩から第13代将軍徳川家定に輿入れした天璋院篤姫が、皇室や薩摩藩が中心となっていた新政府軍へ徳川宗家の家名存続を懇願し続け、認められることになりました。

こちらが最近の徳川家の家系図。家広氏はまだ家督を継いでいないようですね。

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<徳川記念財団HPより>

つーか、保科正之が最近になって家系図に出てきますが、ずっと徳川家家臣団やってたんですね……。

名家どうしのつながりってすごいですね。

第16代当主・徳川家達

その結果、徳川御三卿の一つであった田安家の当主、亀之助を第16代徳川宗家として迎えます。

亀之助は当時、数え年で6歳で、こちらがのちの第16代当主・徳川家達です。

徳川宗家には新政府からは駿河国を中心とした約70万石を与えられましたが、従来の石高の10分の1。

この石高で、徳川宗家のみならず、付き従う家臣たちの生活を守らなければならなかったので、かなり質素な生活を余儀なくされました。

徳川宗家は廃藩置県後に東京へ戻りましたが、天璋院篤姫がまだ幼かった家達の教育に力を入れ、家達を徳川宗家当主として立派に育て上げます。

とにかく篤姫がパネェという話です(´;ω;`)。

よしながふみさんの男女逆転大奥ではこの左の人が、徳川家を最後まで支えるのです(現在はまだ14代将軍の頃のお話ですが…)。

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よしながふみ版和宮はこちら(笑)。

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このように多くの人に支えられ、徳川家は倒幕後も名家として存続できました。

徳川家達はイギリス留学などを経て30年あまり貴族院議長を務めており、周囲の信任も厚かった人です。

第17代当主・徳川家正

徳川家達の息子である家正は外交官として活躍したのち、貴族院議長を務めた、戦前のバリバリの政治家です。

息子の家英を早くに亡くしてしまったので、徳川宗家が断絶することを恐れ、長女の豊子さんが嫁いだ会津松平家から、恆孝さんを養子に迎えました。

超イケメン。昭和天皇に顔立ちが似ています。

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第18代当主・徳川恆孝

<徳川記念財団HPより>

徳川家第18代当主・徳川恆孝さんは、徳川宗家ゆかりの文化財や祭祀を守ることに力を注いでいます。

先祖の祭祀は年間を通して数多く行われており、出席しています。

久能山東照宮や日光の東照宮、増上寺や寛永寺などへ歴代将軍の墓参も行っています。

2003年には、自宅にある徳川宗家に関わる貴重な歴史資料の散逸を防ぎ、一括して永久保存するために徳川記念財団を設立。

所蔵品は、博物館などでの展示会へ出品されています。

まとめ:そして第19代将軍へ…


徳川家は諦めてなどいなかった!!

確かにそろそろ誰かが幕府を建てそうな気はしていたのですが、源氏でも足利でも北条でも織田でも豊臣でもその他の氏族ではなく、直近の人が手を挙げました。

まあ最古の人たち(天皇家)は象徴になっちゃって被選挙権ないしね。

このあたり誰か一人でも名乗りを上げれば知名度は全国区だし、全国の津々浦々にすごい血統の血縁がいて支持基盤はあるだろうしで、参議院という全国区の出馬ならかなり票を獲得できるのではないでしょうか。

北海道知事より、やっぱこの人には国政がふさわしいと思います。

なんかもう今いろいろめちゃくちゃなので、歴史的に一度は日本を牛耳った「歴史的名家」の皆さんに、表舞台にお出ましになっていただきたいのですが。

いま、日本を守るという気概を持ち、それを実行した経験者の知恵が求められています。

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