紀子さまの若い頃の噂や評判は?ご実家と礼宮さまのエピソード

女性なら、子供の頃は誰しも「お姫様」「プリンセス」に憧れたことと思います。

現実は、普通に育って普通に学校に通い、普通にお勤めして普通の男性と結婚するのが一般ルート。

しかし普通の人生をよしとせず、日本一格式の高い家に嫁ぎ、プリンセスの座を自力で射止めた女性が日本にはおります。

その名を、秋篠宮妃紀子さま。

経済的にどんどん坂を転がり落ちてゆく日本、経済格差は広がるばかり。

これからの時代は、経済的に成功したごく一部の男性と、それに群がる女性たちとの「実質的な」一夫多妻制も多くなるんじゃね?とも妄想しております(笑)。

どうすれば「お金持ち」の懐にもぐりこみ、上流階級のお仲間になれるのでしょう?

紀子さまに教えてもらいましょう。

【参考】

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紀子さまのプロフィール

まずは、基本的な経歴を確認。

氏名

文仁親王妃紀子(ふみひとしんのうひ・きこ)

旧姓:川嶋紀子(かわしま・きこ)

お印 檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)
生年月日 1966年9月11日(2019年で53歳)
配偶者 秋篠宮文仁親王
子女 眞子内親王、佳子内親王、悠仁親王
父母 川嶋辰彦・和代
役職 結核予防会総裁
恩賜財団母子愛育会総裁
日本赤十字社名誉副総裁

紀子様の幼少期は、父親の都合でアメリカや日本、オーストリアなどを転々とし、1979年に帰国。

幼稚園はアメリカの自由学園幼児生活団を卒園。

帰国後は、静岡の公立小学校⇒学習院の目の前の公立の目白小学校に通われた後、4年生の時に学習院初等科に編入しています。

その後、オーストリアで2年間を過ごされた後、帰国して父親が助教授である学習院の女子中等科に編入。

オーストリア時代には、馬術を習われています。弟の川嶋舟氏も馬に関わりの深い方でしたね。

その後は、学習院女子高等科⇒学習院大学文学部心理学科へと内部進学しました。

紀子さまの父親は?

紀子さまの父親の川嶋辰彦氏は学習院大学の先生で、経済学選考。

本当にふつうの一般家庭で、一家で大学教員用の宿舎に住んでいたため、紀子さまは「3LDKのプリンセス」と呼ばれました。

川嶋辰彦氏は当時は講師職で、紀子さまと秋篠宮様が結婚したあとに教授職に昇進(まあ、皇族と結婚したのですからこれくらいはね^^;)。

ずーーっと大学教授をつとめているので、論文などの文章は多く上梓しているのですが、著作が一冊もないのがちょっと不思議な方です。

学習院大学の馬術部の部長をつとめていて、明仁親王一家(当時)とは、部活動関係の会合の関係で、面識があったとか。

このツテで、紀子さまの弟である川島舟氏(馬セラピーの研究者として有名)が美智子さまの馬の世話をしていて、妹の紀子さまを秋篠宮さまのお相手として勧めたとも言われています。

日本・タイ間の学生交流やボランティア活動にも力を入れております。

妃の座をめぐる熾烈な争いに参入

現在の紀子さまを見ていると、非常に上昇志向が強い野心家というか、上流階級に憧れていたようです。

年齢的に紀子さまが学習院大学高等部の頃でしょうか、最初は皇太子・徳仁親王に接近しました。

しかしやはり身分違いのため、皇太子さまをとりまくご学友たちにがっちりガードされ、近寄らせてもらえなかったらしいです。

そして次に狙いを定めたのが、ひとつ年上の礼宮さま。

秋篠宮さまは、紀子さまと出会った当時は「礼宮(あやのみや)」と呼ばれていました。

こう言ってはなんですが、秋篠宮様の品行のアレさは、年配の方々の方がよく知ってます。

管理人の大正生まれの祖母は家族で客商売をしていたのですが、黒電話とは言わないまでも、ケータイもメールさえもなく、固定電話しかない時代に、皇室の噂話についてはとても詳しかったです。

おおむね、雅子様のキャリアウーマン時代は本当に素敵だと話す一方で、「秋篠宮様や紀子さまはまぁ…」みたいな感じ(笑)。

そのへんを詳しく聞くと秋篠宮さまは、なんというかたいへんな遊び人で、学習院時代にガールフレンドが7人とか8人とかで、股をいくつもかけていたとか。

この辺は、現在の50代以上の人のほうが詳しいでしょう、だいたいみなさん口を揃えて同じことをおっしゃいます。

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妃の座をめぐる熾烈な争いに参入

嗚呼上流階級! 女性なら誰でも一度は夢を見ますよね。

そしてその女性の夢を夢のまま終わらせず、実際に実行に移したのが紀子さま。

多くの女性たちが待ちこがれる白馬の王子様を、チャーミングで可憐な顔立ちとは裏腹に、狙って獲物は待つのではなく自分から狩りに行く実に勇猛なバイタリティをお持ちでした。

秋篠宮さまは次男なので学習院大学のときかなりモテてていて、プリンセスになりたい野望をたたえた女性たちの取り巻きの数がすごかった。

ももちろんその中の一人だった紀子さまは、かなりの策士でした。

まずは秋篠宮さまがよく立ち寄るという学習院大学の書店主に、「礼宮さまを私に紹介してください」と依頼。

一説には、紀子さまの父親が書店主に、娘を文仁親王に紹介してくれと頼んだとも言われています。

まあこれが本当だとしたら、学習院大学の教職にある方が、自分の娘を皇族にねじこんだということになりますが、本当でしょうか。

ともあれ紀子さまは、学習院大学時代において1学年上だった秋篠宮文仁親王(当時は礼宮文仁親王)と出会い、自然文化研究会などのサークル活動を通じて仲を深めます。

紀子さまの作戦の内容は?

秋篠宮さま自身は皇太子さまと違い、小さい頃からずーっと自由奔放に過ごしていて、皇族としての自覚や教養はありません。

いろいろ隙だらけの宮さまをゲットして上流階級の仲間入りを果たすべく、紀子さまのなりふり構わぬ肉弾戦が始まります。

まあね、自分が御せるターゲットを選定することも大事ですよね。

紀子さまの方針と作戦は徹底していました。

・ターゲットの好みの女性らしく振舞うこと

・ターゲットが望むことはなんでもすること

礼宮さまは、「いつでもどこでも自分の思うとおりになんでもやってくれる女性」が好きでしたので、その通りにしたのです。

少々だらしないと言えるまでに女性好きだった礼宮さまを、20歳前後の自分の若さと美しさ、そしてお色気で秋篠宮を陥落させるため、まず標準装備はフレアースカートに生足。

いろいろ計算を巡らせたのでしょう、紀子さまは礼宮さまが学生時代に作ったチャラめのサークル「パレスヒルズ・テニスクラブ」に所属、そこではっきりいって下着丸出しでテニスボールなどを拾ってました^^;。

↓↓↓テニスウェアってま動きやすいようにスカート短いものですが、短パンとか履いてなかったのです。

母校である学習院大学のあちこちで、秋篠宮さまと紀子さまが抱き合っていたという目撃情報多数。

礼宮さまからの呼び出しがあれば、いつでもどこでも駆けつけました。

うわさといっても学習院大学時代の多くの証言があり、ここまで下品なことを言われるのは、はっきりいって紀子さまくらい。

ほかにも学生時代サークルの合宿と称して、ほとんど婚前旅行同然の旅行に行ったりしてました。

↓↓↓男性ばかりのメンバーの中に、女性の紀子さまがひとり……。浴衣姿ですよ。

結婚してからも超ミニスカのテニスウェア姿を披露しており、ボールを拾う時の配慮もなし。

もっとものすごいエピソードもあるのですが、さすがに18禁コードに引っかかるためここにはとても書けません。

残念ですが、ああ噂は本当だったんだなと思うくらい、たしなみというものがありませんでした……。

このことは、現在はどうかは知りませんが、かなり後の卒業生まで知っていて、代々後輩へと話が伝わっています。

だから、秋篠宮ご夫妻の3人のお子様たちは、学習院大学に入れられないのです。

学習院大学に子供たちを入学させれば、自分たちの若い頃の醜聞が、いやでも子供たちの耳に入るからです。

紀子さまの堕胎の相手は?

学習院大学の噂にすぎませんが、紀子さんは2回堕胎した経験があると言われいます。

もし本当に紀子さまに堕胎経験があるとすれば、お相手は、順当に考えれば礼宮さまでしょう。

大学生活の全てをかけて礼宮さまに狙いを絞っていた紀子さま、他の一般庶民に浮気する理由が見つかりません。

川島家は、とにかく皇室に入りたくて入りたくて仕方がなくて、紀子さまの祖母の世代から皇室入りを狙っていたらしく、すごい執念。

交際していた時も、紀子さまが礼宮さまを連れて自宅の社宅に何度か訪れたことがありましたが、まもなくすると紀子さまのご両親は外出し、しばらく家を空けていたとか(……)。

紀子さまの母親はむしろ「礼宮さまはうちの娘を気に入って離してくれないのよ、ホホホ」などと笑いながら、近所の人達に自慢していたそうで……。

これらの話は雑誌記事等ではなく完全に口コミで、それだけで全国に広まっています。

皇室ってすごいですよね……。

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昭和天皇の喪中に婚約発表

かいがいしい努力の甲斐あって(?)、並み居るライバルをばったばったと蹴散らし、みごと礼宮さまの「妃」の座をゲット。

婚約が決まった時、紀子さまは「やった、ついにやった!」「これでいい生活ができる!」と、大はしゃぎで友人に報告したといいます。

しかしこの婚約発表、昭和天皇の喪中のことでした。

いくらなんでも信じられないくらいの非常識です。

昭和天皇がご存命だった頃は、紀子さまの家柄についてかなり難色を示しておられたと伝え聞きますが、その意趣返しのつもりなのでしょうか。

はっきりいって川嶋家の家柄では、「皇族の側室にもなれない」とあやぶむ声も当時はあり、ガチの現人神だった昭和天皇は川嶋家、とりわけ父親の辰彦氏について「川嶋ナニガシ、不快なり」と、はっきりと紀子さまの輿入れについて不快感を示されていたことは有名です。

(思想的な背景があったようですが、詳細は省きます。弟の川嶋舟氏は、反体制・左翼思想の朝日新聞主催のクラウドファウンディングを主催していましたので、お察しください。)

昭和天皇という障害がなくなり、紀子さまは無事に秋篠宮家にお輿入れ!

しかしお妃選びがひときわ難しい皇太子さまより先に婚約というのはまだしも、こういう前後の事情をふまえていると、「昭和天皇の喪中」というのはあからさまにひどすぎます。

このことから、

川島紀子さんは礼宮さまの子どもを堕胎していて、それに怒った川島教授が「娘をどうしてくれる!」と御所に怒鳴りこんだため、それでしぶしぶ結婚を認めてあげた、

などという虚偽をおりまぜた噂が、全国に広まりました。

なお、紀子さまの弟の川嶋舟氏は馬セラピー研究者として有名ですが、美智子さまが学習院大学主催の馬術部(父の川嶋辰彦氏が部長)にお寄りになったとき、妹の紀子さまを礼宮さまのお相手として勧めたとも。

まさに川嶋家総総動員体制の紀子さまの婚約内定でしたが、ほかにも美智子さまの推薦も大きかったのでしょう。

↓↓↓美智子上皇后の当時のファッション(ローブ風というのでしょうか)を真似した服の紀子さま。

美智子さまはこれから最強の姑となる方ですし、尊敬と敬愛の念はもちろん、恭順の意も込められているのでしょう。

美智子さまにしてみたら、自分を慕い、お手本にしてくれた紀子さんは可愛いかったことでしょう。

この時期の紀子さまの婚約内定に、美智子さまの後押しがあったのは間違いありません。

これは憶測ですが、当時唯一民間からお輿入れした美智子上皇后は、自分と同じように民間出身の女性を、自分の味方につけたかったのかもしれませんね。旧華族の方々とはいろいろあったようですし。

「アヤメ」の意味

学習院時代、紀子さまは周囲のご学友たちからひそかに「アヤメ」というあだ名をつけられていました。

「礼宮(あやのみや)さまの」という意味で、アヤメです。

紀子さまの婚約が発表された時、ラジオの生放送番組で、学生時代のおふたりの素行を知る出演者(元長野県知事でありなんとなくクリスタルな人)が思わず、「嘘だろ?あのアヤメかよ!」って思わず口をすべらせ、番組のMCを降板させられてしまいました。

お印が「ヒオウギアヤメ」

皇族の方々は、自分のシンボルマークを持っています。

実際に身の回りのものに刻印されることは少ないですが、その人の象徴として用いられています。

今上陛下(令和)は梓(あずさ)、雅子皇后ははまなす、というふうに。

紀子様の場合、この学習院時代の「あだ名」をもじられ、「ヒオウギアヤメ」に決まりました。

宮内庁もまあ陰険ですが、実態に即してはいます。

紀子さまをどのような女性と捉えていたか、秋篠宮さまとの結婚に積極的賛成ではなかったという態度がうかがえます。

小室圭さんは紀子さまを参考にした?

紀子さまのご実家である川島家は、社宅住まいで特段の財産もなく、宮内庁に「身分違い」と反対されたのに、マスコミを味方にして皇室入りを果たしました。

通常は身分か経済力がなくては皇室入りなどかなわないもので、実家がお金持ちだった美智子上皇后は、現在の貨幣価値に換算して数億のお嫁入り支度をしています。

上皇后が納采の儀でお召しになった振袖は、当時のお金で百万円、現在なら1000万円以上。

秋篠宮さまと紀子さまの婚約が決まった時、納采の儀の時の紀子さまのお振袖は皇室負担、紀子さまが結婚式で使った手袋の請求書まで皇室へ送付しました。

このやり方、この態度、どこかの小室圭さんに非常に似ていませんか^^;。

小室圭さんではなく、世代的には実際は母親の佳代さんの方が紀子さまの噂については詳しかったでしょう、息子を眞子さまに取り入らせる戦略を描いたのは小室佳代かもしれません。

まとめ:女性版小室圭にきれいな因果応報

自分の地位をあげようと、努力する人は嫌いではありません。

紀子さまがとった作戦は次の4つ。

・とにかく結婚したい相手がいる空間に行く。

・ターゲットの好みを徹底的に研究し、それに合わせて関心を引く。

・ターゲットの望みはなんでも叶える。

・家族を総動員した協力体制

ダイアナ妃をはじめ、民間から后を迎えている王室の妃はもちろん格差婚を果たした女性は、だいたい似たようなことをしているものです。

とにかく「王子様」の好みを研究し、その理想の女性像に合うようふるまい、創意工夫し、あとはひたすら自分を磨かなければなりません。

そこに「自分の魅力を最大限に」「自分の個性や強みを生かす」などという甘っちょろい理想論が挟まれる余地は一切なし。

上流階級に成り上がる野心を秘め、自分のささやかな幸せより地位と名誉を選択した女性がすべきことは、理想的な皇族の一員という「型」にひたすら自分をはめこみ、王子様の関心を自分に向けるためのひたすら冷徹な計算。

生まれついて上流階級の水の洗礼を受けていない庶民の女性が、ああいう世界に自分を合わせる努力というのは並大抵のものではありませんが、体を反り返らせて優越感に浸った生活を送りたい人たちというのは、基本的にそういう苦労はおしみませんからね。

「女性として最高の栄誉」を求めたダイアナ妃は、果たして幸せだったでしょうか。

私は、紀子さまの現在の顔つきを見る限り、とても幸せそうには思えません。

↑↑↑

完全に、長年「自分の心を殺してきた」顔です。

なんていうか、……言ってはなんですが、あまり上品な笑顔ではありません。

礼宮さまが紀子さまを「都合のいい女性」と見ていたように、紀子さまも「プリンセスの地位」のみが目的で、礼宮さま自体はそんなに好きではなかったのではないでしょうか。

後の世にまでこんな悪評が残るプリンセスはそうはおりません。

ああいう世界は資金力、つまり「後ろ盾」が全てなので、それもなしに超上流階級に飛び込んだ紀子さまはそれなりに健闘したのでしょうが、30年経ってその無理がたたってきたように思えてなりません。

残念ですが身から出た錆というのにふさわしく、小室さんと眞子様の結婚問題で、秋篠宮家の問題がどんどん露呈してきています。

紀子さまでは眞子さまをたしなめることはできないでしょう、自分も小室圭さんと同じことしたのですから。

やはり一般民衆と同じに考えてはならず、天皇家がここまで長く続いたのは、独特な制度を維持し続けたから。

皇室というのは基本的にまともな感覚を持っていますが、秋篠宮家の醜聞をまだ黙って見守っているのも、それだけ地盤にまだまだ余裕があるからです。

平成の上皇陛下は民間から妃を迎え、皇室存続のために「開かれた皇室」の方針を取りましたが、こちらは一応の成功をみたと言えるでしょう(少々「劇場型」すぎたっぽいかなーと思いますが^^;)。

しかし秋篠宮家の現在の状態を見ると、民間から結婚相手は連れてくるのは、非常に難しいんだなあと思います。

【参考】

紀子さまの弟の離婚理由は?川嶋舟を皇室利用したNPO法人とは

紀子さまの若い頃の噂や評判は?ご実家と礼宮さまのエピソード

小室圭と眞子様が税金で豪華婚前欧州旅行?秋篠宮家が切れない理由

紀子様の怖い正体 したたかな皇位簒奪計画を雅子皇后は防げるか

悠仁さまの学力や成績は?中学までロイヤル忖度の天皇に東大は必要か

納采の儀とは 意味や結納の品物、金額は?最近の儀式画像の一覧

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コメント

  1. 浦田 冴子 より:

    噂は本当だったんですね。結婚が決まり始めたころから年配方の話をきいていました、あの頃はまだSNSなどの情報もなかったので、へーって感じでした。紀子さんやりますね、計算高いすごいです。
    昔、コウノヘイとかって祖父母の時代、天皇家のお手伝いをする人でさえ、身柄調査をして家柄、学歴、犯罪者や自殺者がいないか、調べに調べてから雇っていたそうです。紀子さんや小室圭は調べなくてもいいんですね。なんか、あきれます。税金で贅沢三昧される方々にしかおもえなくなりますね

  2. you より:

    ご存知とは思いますが、

    紀子妃の父方祖母・川嶋紀子(いとこ)様は、戦前の大阪市長の娘から官僚の妻になり子息や甥御さんは学者という、いわゆるまったくの庶民出ではありません。
    https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=&oldid=71593052
    ただ、ご結婚当時「私の代わりに同じ名前の紀子ちゃんが・・・云々」という発言には、戦前派なのに何勘違いしてるのか?と少し驚きました。

    母方祖父様は整体師とのことでしたが、娘さん二人とも東京の私大へ進学させ、孫娘にピアノを買い与えられる環境ではあったので、名前は書きませんが某高級整体会の整体師さんではないかと推測しました。紀子妃の叔母様は有名ブランド重役夫人で、結婚前の紀子様の服はその方から提供されていると報道されていました。母方祖母様は「紀子ちゃんはかぐや姫」と言われ、謙虚な方でした。

    JFKジュニアの結婚で新婦が「クラスクライマー」という言葉を流行させましたね。紀子妃はダイアナ妃と美智子皇后を必死で真似ておられるのが、当時は健気に感じていましたが、今はおっしゃるように笑顔が変わってしまわれた。能面のように無表情な笑顔になっていまわれました。悠仁様御誕生と秋篠宮殿下の野心で変わってしまわれたのでしょうか?ただ、ご公務を頑張っておられたのは事実です。

    ご結婚当時、紀子妃は「笑顔のきれいな人」雅子妃は「”作り笑顔”のきれいな人」と言われていました。しかし、今やどちら様も・・・・・・。
    蛇足ながら、結婚時の正装姿で秋篠宮殿下の髪を直される紀子妃の姿にショックを受けました。新婚夫婦の初々しさはなく、まるで慣れ親しんだ御夫婦のような印象を受けました。

  3. naetoru より:

    はじめまして。
    なかなか面白いゴシップ記事ですね。写真も素敵です。
    お妃になりたい夢を美貌でがんばって叶えたけれど、途中には女性として悲しいこともあったわけですね。過去に後悔はないのでしょうか。ご本人しか知りえませんけれど。
    上記の方もおっしゃる通り、川島家は明治時代に作られた身分制度からすると「平民」になりますが、本来なら良家の子女と呼ばれたはずと思います。
    とはいえこの方、面白い話をみんなに振りまいてくれる「貴族気質」ですね。ほかの生き方はできなかったと思います。
    ダイアナ妃はクラスクライマーでなくて伯爵令嬢(スペンサー家は英国王室と同格の家柄)で、生まれながらにお妃候補でした。育った家も、庭に小川が流れるくらいの広大な敷地で、文化財の邸宅です。ダイアナ妃の祖母はエリザベス皇太后の女官長(エリザベス女王の母と親しい友人ということ)で王室とは先祖代々繋がりが深いです。ダイアナ妃がどうして平民出身という噂が出たのか不思議でなりません。現在は弟がスペンサー伯爵の爵位を継いでいます。貴族にあこがれる女性(最近は男性も?)に狙われるような家柄の出身ですよ。(ただし、最近、イギリスの歴史の本で知ったばかり。にわか知識でおはずかしい)
    またね、楽しい記事まってます。