香淳皇后は美智子さまを無視して意地悪してた?遺伝子や晩年について

現在の40代以上の人は、かろうじて香淳皇后を覚えているでしょうか。

昭和天皇の奥様で、62年も長期間、皇后をしていた久邇宮(くにのみや)家出身のお姫様です。

あんまりテレビでは見かけなかったですが、たまに見るとでっぷりしたおばあちゃんだなーと思ってました。

子供の頃は、国民にたいへん人気だった美智子さまの嫁イビリをしたお姑さんとしての方が有名でしたっけ(笑)。

でも、いま思い返すと、おっとりとした優しそうな方だなあと思います。

【参考】

美智子皇后の若い頃!幼少期から婚約決定まで!絶世の美女でしょこれ

美智子さまの真実は平成の西太后か武則天 退位後も内廷費で税金が湯水

雅子さまの病状の原因は?平成の皇室は壮絶なモラハラ職場




香淳皇后のプロフィール

昭和を生きた方は、本当にエピソードが多くてまとめるのが大変ですが、簡潔に。

名  前:香淳皇后(こうじゅんこうごう)

生年月日:1903年(明治36年)3月6日 ~ 2000年(平成12年)6月16日

在  位:1926年(大正15年・昭和元年)12月25日 ~ 1989年(昭和64年〉1月7日

本  名:良子(ながこ)

お  印:桃

第124代、昭和天皇の皇后さまで、第125代の平成の上皇のお母様。

今上(令和)、秋篠宮文仁親王、黒田清子さんの祖母で、愛子さまと悠仁さまのひいおばあちゃんにあたる方です。

生粋のお嬢様育ちで、写真を見てもお雛様のように可愛らしく、人を疑うことを知らない方だとよく言われています。

この時代の公家や宮家、旧華族の方々は、みな優雅でした。

遺伝子の問題であやうく結婚取り消し

大正天皇の后の貞明皇后にスカウトされ、昭和帝に推薦されたのが香淳皇后です。

雲の上の方々は、自分たちの息がかかった女性を天皇の妃として日本最高の権威を手に入れたいため、我先にと自分の息がかかった女性を推薦したいので、派閥が発生します。

香淳皇后(当時は良子)が皇太子妃に内定した後、他の女性を推薦したい思惑を持っている勢力が、香淳皇后の家系に色覚異常の遺伝があることをリーク。

子孫にも遺伝していく可能性が指摘されたため、皇統に色覚異常の遺伝子を入れていいものか、と、軍部と政界に強い影響力を持っていた元老の山縣有朋(やまがたありとも)らが、香淳皇后に婚約辞退を迫ったのです。

宮中はもちろん、政界や世の中を巻き込んだ大騒動に発展し、「宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)」という名前がつけられるくらいの事件になりました。

しかし、香淳皇后を推薦した貞明皇后を筆頭に、旧宮家や旧家族の方々が結束して婚約の破棄に反対を表明。

最後は昭和天皇の「良子(ながこ)よい」という意向で、婚約破棄の話はお流れに。

山縣有朋の影響力はすっかり弱まってしまい、まもなく死去してしまいました。

昭和帝と香淳皇后は、非常に仲の良いご夫婦でした。

おふたりの間には結婚後10年以上男の子が生まれず、見かねた側近から側室を勧められましたが、昭和天皇が「良子よい」と断ったバージョンもあります。きゃー♥

スポンサーリンク



香淳皇后は美智子さまをいじめていた?

上皇と美智子さまの結婚に反対していたことは本当で、香淳皇后は常磐会関係の、旧皇族出身の別の女性を推薦していました。

神話の時代から昭和の今の今まで、天皇家の直系にずーーっと民間の血は入っていなかったし、香淳皇后自身がバリバリの正統派皇族でした。

伝統を覆すのは、やはり相当の抵抗があったのでしょう。

しかし上皇の強い意志と、昭和帝は美智子さまの母親の富美子さんが苦手だったものの、最終的には「皇太子が選んだ女性ならいいじゃないか」という暖かい寛容な賛成により、美智子さまの入内が叶います。

昭和帝は生物学を学んでおり、あまり血を濃くしないほうが優生学上いいと考えていらしたのでしょう。

美智子さまティアラ事件

そして実際に美智子さまが入内したあと、皇室の複雑なしきたりを教えるのは香淳皇后の役割です。

旧皇族や旧華族ご出身の方でもマスターするのは大変なのに、民間出身ではなおさらのこと。

いろいろとお教えしようとしたのですが、美智子さまは予想以上にたいへん我が強かった。

香淳皇后とはウマが合わず、「ティアラのつけ方が違う」と何度注意しても、これを聞き入れない。

相談を受けた高松宮妃喜久子(きくこ)さまが、やんわりと注意して位置を直したそうですが、その数分後に美智子さまは、ご自分で元のオリジナルの位置に戻してしまったそうです。

「もうお教えしません」と言われてしまいました(皇室でこういう態度は良くないです^^;)。

美智子さま夕食をボイコット事件

皇居の夕食は、天皇皇后両陛下と皇太子ご夫妻がいっしょにとられておりましたが、やはり香淳皇后と美智子さまはぎくしゃくしていていた様子です。

美智子さまがぎこちない雰囲気に耐えられなくなり、何回か続けて夕食を欠席されたことがあるそうな。

これが何回も続くと「美智子は来るに及ばず」と、さすがの昭和帝もご不快をあらわにされました。

数人の侍従になだめられて数日後、美智子さまはどうにか夕食の席に戻られたというエピソードもあります。

時代が移り変わったせいもありましたが、美智子さまは姑のご自分以上に衣裳はどんどんつくるし、静養は軽井沢のホテルを豪華に一ヶ月借り切っていましたし、海外公務にもたくさん行ってました。

昭和帝もちょっと甘やかしすぎじゃね?と思いますし、香淳皇后もたいへん寛容だったと、私は思います。

スポンサーリンク



香淳皇后が美智子さまを無視事件

それでも香淳皇后だって人の子、そういうことが重なり、立場的にはるかに格上の自分より、嫁の美智子さまの方に国民やマスコミの注目度が断然高い。

おもしろくないわと思ったって仕方がありません。

動画は見つからないのですが、昭和50(1975)年9月30日、昭和帝と香淳皇后がアメリカ訪問にご出発になる日のこと。

昭和帝は美智子さま、続いて皇太子(現在の上皇)に丁寧に頭を下げられました。

その後に続いた香淳皇后は、常陸宮さまに挨拶なさったあと、美智子さまの前をすっと通り過ぎ、皇太子さまに深くお辞儀をされたのです。

モニターの画面に映る映像は後ろ姿でしたが、美智子さまの前を素通りされたのははっきりわかりました。

このシーンの一部始終は、テレビで日本中に放送されていたというのに、日本国民に皇室内の不仲が知れ渡ってしまったのです。

これには、当時の侍従として有名な浜尾実氏もたいへん驚いたとのことです。

晩年は美智子さまに仕返しされた?

美智子さまには、おもしろくない部分が残っていたのでしょう。

ご実家は日清製粉ですし、弟妹が婚姻により財閥と閨閥を持ったので、マスコミを利用できるようになった美智子さまは、

・痴呆が入った香淳皇后の姿をマスメディアにさらしたり

・外部と連絡を取るための電話を取り上げたり

・香淳皇后の馴染みの侍女を退け、自分の息のかかった女性たちに取り替えて孤立させたり

という、「昔の仕返し」としか思えない、たいへん冷酷な仕打ちをなさっています。

美智子さまには、このようにあまり良くない噂もあります。

香淳皇后は昭和帝崩御後、皇太后となってからは、吹上御所で6人の少数の侍女たちとともに、静かに暮らしていました。

昭和帝が先に崩御されてしまい、本当にさみしかったと思います。

まとめ:あー涙出てくるよ(´;ω;`)

香淳皇后は、筋金入りの正統派皇族でした。

お姫様って家の中で守られてなよなよしてるものかと思っていたのですが、あの時代にあれだけ気丈に生きて、子供もきちんとと育て上げたのですからすごい方です。

雅子皇后の高祖父や曽祖父は、「迪宮(みちのみや)」時代の昭和帝にお会いしておりますし、香淳皇后との御成婚式にも参列されてます。

上皇は香淳皇后によく似ていますね。お母さん似。

昔の女性らしく慎ましやかで、あまり表に出てらっしゃらない方でしたが、このように動画でみると、大変穏やかで優しそうなおばあちゃんです。

とにかく激動の時代を統治した昭和天皇の横に、自然におられる存在感。

特に国民の歓声に応える「お手ふり」が、現在のアイドルちっくに手のひらをばーんと見せて横に振る方法と違い、どちらかというと手の甲を見せつつ振り振りされるやりかたが、貫禄があって好きです。

昭和帝も香淳皇后も、次の御代ことには口出しせず、静かに見守ってわきまえておられましたよね。

1年半も皇居に居続ける上皇ご夫婦と、この点はどうしても比べてしまいます。

【参考】

美智子皇后の若い頃!幼少期から婚約決定まで!絶世の美女でしょこれ

美智子さまの真実は平成の西太后か武則天 退位後も内廷費で税金が湯水

雅子さまの病状の原因は?平成の皇室は壮絶なモラハラ職場

スポンサーリンク



スポンサーリンク





シェアする

フォローする

コメント

  1. より:

    粉屋の娘と言って美智子様を侮辱し、一般人の出と言う事でとことんイジメ抜いたのは誰あろう、香淳皇后です。この文章では美智子様が悪者になっていますが、現実は全くの逆。